Eテレ「オイコノミア〜世界が注目!BONSAI(盆栽)の経済学〜」を観て。凝縮の美学。
こんにちわ、SUMIKICHIです。
前回に引き続き植物もの。今回のテーマは、〜世界が注目!BONSAI(盆栽)の経済学〜。おじいちゃんの趣味ととうイメージのある“盆栽”ですが、結構好きで興味ございましたのでざっくり備忘録しときましょ。写真は内容の盆栽とは違います。
ロケ地は、埼玉市北区盆栽町の盆栽村。最盛期にはこの地域に約30の盆栽園があった。関東ローム層の赤土や地下水が豊富で盆栽用の資源に恵まれていた。もともと雑木林が広がっていて、関東大震災で被災した東京の盆栽業者が移住してきたところから盆栽村は生まれた。最初は3つの盆栽屋さんが自ら切り開いて村を作った。こんなに同業者が集まっていることを、経済学では・・
例えば、東京の神田の古書店街、ありとあらゆるジャンルの本屋が軒を連ねている。つぶし合いになりそうだが、自分の店だけがポツンと離れているより、集まっている場所の方がお客様は行きやすい。初めて盆栽を買いたいなと思ったら、とりあえず、盆栽村に行ってみようとなったり。
そもそも、鉢植えと盆栽はどう違うのか?
訪れたのは‘大宮盆栽美術館’。2012年に開館、100を超えるコレクションの中から見頃の盆栽を展示している。
さて、違いについて。鉢に植えた木というのは同じだが、盆栽は、枝先、枝振り、葉っぱ、これらに職人さんが手を入れ仕立てあげぎゅっと凝縮したもの、つまり、放置しておけば大木になるのを、手間暇かけて人が手を入れ、ひとりの人間が抱えられるほどの大きさに凝縮、しかもそれが大木のように見えるもの。
体感するためには、腰を落として見上げてみると、枝振りがよく見えて世界が変わるのがわかる。空をバックにすると比較対象がない分、大木に見える。盆栽は自然の凝縮、自然の大木のミニチュア化、というところに盆栽の美学がある。(よく小宇宙だって聞きますね)
良い盆栽は何が違うのか?
ポイント① 樹形
正面から見て、幹のうねりや枝振りがいかに大木らしさを表現しているかに注目。正面にポイントを置くように仕立てていく。まず、その木の気持ちになって樹形を体でマネてみるといいらしい。(ホント?)
ポイント② 古木感
樹齢が古いと価値が増す。最も古い盆栽のひとつ“千代の松”は樹齢500年。(す、凄い)
ポイント③ 所蔵歴・所有歴
歴代誰が持っていたかが重要。樹齢100年を超える花梨の盆栽は、戦後首相だった佐藤栄作氏から岸信行氏の手を渡ったということで、大きな価値を持ち日本一有名な盆栽になったらしい。有名な誰々が持っていた、誰々が高い評価をしたというものに人間は価値を高くみてしまう。これを経済学では・・
もし仮に、一般人のパンクブーブー・佐藤さん(ゲスト)が、その有名な花梨の盆栽を買ったとし、次に誰かが買うときは価値が下がってるってこと?そうなるでしょうね、とのこと。
この美術館で最も価値ある盆栽、樹齢450年の五葉松の「日暮し」は、その名の通り眺めていると日が暮れてしまうほどの美しさ。現在実物は拝見できず、4月末に開催される世界盆栽大会に出品するためバックヤードでコンディションを整え中。評価額は、なんと、1億3,800万円!(あらら、大会宣伝だったのねとは思うけど、よし、展覧会に!って気になっちゃうな)
さらなる魅力を味わうために一行は、又吉さん馴染みの清香園で盆栽作りを体験。
まず、いくつかの小さな苗木(真伯というヒノキの仲間)から、好みのものを選ぶ。10年経つと結構太り、それなりになるらしい。
手順は・・
①正面から見た幹の形が気に入ったものを選ぶ
②余計な枝を剪定していく
木のトップを決める。
葉が密集しているところが美しいので、そこから三角形になるように。
てっぺんの枝をまず切る。
剪定のコツは開いた手のひらをのせ、そこからはみ出した枝を切る。
間違って切っても、春以降芽が出るので怖がることはない。
目の高さに持ち上げて、自分が1㎝位になったつもりで、この木が大きくなったイメージで切る。
あっという間に1時間経過。又吉さんと佐藤さんは収録そっちのけでハマる。
③木に合った器を選ぶ
最後に土と苔をつめて完成。随分こじんまりとしたが、それなりのチビチビ盆栽になった。
材料代はざっと6,000円くらい。先生は、それに付加価値をつけたとして8,000円なら買うが、逆に売るか?と聞くと、二人とも、もう愛着湧いてるので嫌ですね、と答える。
実は、自分が手がけたものに価値を見い出すことを経済学では・・・
組み立て式の家具を販売する量販店から名付けられた。
さて、二人が作った盆栽、ここからが始まり。伸びたら剪定、枝を下げる針金成形などより良いカタチを作っていく。相手は生き物なので完成というものはない、そこがおもしろい。
ところで、盆栽といえばおじいちゃんの趣味ってイメージがない?
50年前、働き盛りの男性の間で空前の盆栽ブームが起きた。ある企業には盆栽倶楽部もあったとか。高度成長時代、さつき盆栽が大人気で、当時大卒初任給くらいの値段でも、作ったはしから売れて行く。ブームがおきるっていうのは、最初は好きな人が自分で楽しんでいるのを、それを見た人が、あっ、いいねと思って広がる・・これを
みんなが持ってるから自分も欲しいみたいな。テレビゲームもそんな感じだったり。でも本当はそんなに欲しいわけじゃないけれど、後になったら買えないから今買っておこう、とか、最初に買ったら、値上がりしたので売って儲かった、とか、だんだん投資のために買おうとなったりして、こうなるとブームからバブルに。ガンダムもそんな状況だったと佐藤さんは言う。
ブームはいつか終わり衰退することもある。これを・・
盆栽の場合、どうしてブームが終わったの?
先生の分析では、趣味が少なかった戦前生まれの人たちにとって、首相達の愛好する盆栽がイケてる趣味に映った。しかし、戦後生まれになるとアメリカ文化を中心とした多様な趣味に若者たちは夢中になった。その結果、世帯交代が進まず、おじいちゃんの趣味になってしまった。
しかし、今、盆栽ピンチ!と思いきや、ある盆栽園ではドイツやアメリカの若者が修業中。子どもの頃観た映画「ベストキッド」の中で主人公がベビーツリー(盆栽)だと言って楽しんでいる姿が印象的で、大学生になって、BONSAIを勉強しようと思ったらしい。盆栽は植物だけど、見るときは美術みたいで面白い、と言う。
また、ある盆栽園に保存されている昭和20年からの芳名帳には、海外の人たちの感想がびっしり英語で書かれている。‘盆栽の芸術と技法は、この国で見たものの中で最も興味深かった’‘あなたの盆栽園の美しさは孫の代まで語り継がれるだろう’と。
1964年東京オリンピック、1970年大阪万博などの国際大会で盆栽展示会も行われ、海外の人にも知られていた。今ではBONSAIとして広く知られ、盆栽町を訪れる人が年々増えている。盆栽の輸出数もこの10年で倍増している。若い男女が圧倒的に多く、あと10年すれば、日本の若者より、スペイン、イタリア、フランスなどの若者の方がずっとレベルが高くなるのでは?と園長は危惧する。
美術館も海外の来館者がどんどん増え、愛好家だけではなく一般人の観光ルートにも組み込まれているらしい。世界的なマーケットに出て行くのは、盆栽に限らない。日本は人口減がとまらず、海外でモノを作り売っている、自動車にしてもそう。
日本では日本文化がすたれていくのか?
ところが、最近、埼玉のある古民家では、ダンスミュージックに乗せて盆栽を作り上げていくパフォーマンスが行われている。盆栽師の平尾成志さん、斬新なアプローチで若い世代にも盆栽の魅力を届けようと、国内外で精力的に活動している。作る過程を見て貰って、まず盆栽はカッコイイと思ってもらいたいと。
この活動は・・・
日本語で言うと技術革新って、工業製品のイメージがあるがもともとはそんな意味だ。ゲストの佐藤さんは、経済学ってホント身近にあるものなんですね、驚きましたと感想を話す。
最後に、又吉の経済ポエム〜いきものは基本途中〜。
盆栽は、まあまあ好きだと言いながら、作り方や鑑賞の仕方などは存じ上げなかったので勉強になりました。ちょっと作ってみたいかなと本気で思いました。53歳で苗木から始めますと、この先の完成度にそんなに大きな期待は抱けませんが、イメージしながら時を刻んでいくのも乙なものかしら。庭にも何本か植樹してまして、基本、大きくなることが前提で、はやく雑木林風になっくれるといいなーと楽しませてもらってますが、それとは違った趣がありそうです。観葉植物とも違いますね。小宇宙って世界観?あっ、またあれやこれや手を出す病が・・。
若い人が興味を持って始めたら、仮に20歳でスタートして平均寿命まで生きたとして・・60年かければ、かなりのカタチの盆栽が作れるんじゃないでしょうか。羨ましい話ですねぇ、それ。ふっ、近いうち、盆栽園行って来ましたーって記事がアップされてたりして。
日々感謝です。
Eテレ「100分de名著 人生論ノート・三木清 第2回〜自分を苦しめてしまうもの〜」を観て。言わなかった“責任”かぁ。
こんにちわ、SUMIKICHIです。
すっかりレギュラー視聴するようになったEテレ「100分de名著」。今月は、1937年に冒頭の一章が発表されて以来80年近くもロングセラーを続ける名著「人生論ノート」。第2回は、自分自身を傷つけてしまうマイナスの感情と上手につきあい、コントロールしていく方法を学んでいく、というもの。ざっくり備忘録しときましょ。
まずは、自分を苦しめるものとは、怒りや憎しみ、虚栄心、嫉妬、そういう生きることの妨げになるようなマイナスの感情。しかし、三木清は完全に否定はしていない。例えば、虚栄は人間そのものと言っているし、人間的だと。
では、そもそも虚栄心とは何なのか?
人間はみな生きる上で、不安や怖れを抱えている。そこから少しでも目をそむけるために、自分以上の自分を作りだそうとする。
自分をより高めたいという想いも虚栄心。一体、我々は虚栄とどのように付き合えば良いのか。三木は“創造”が鍵になると考えた。
いかにして虚栄を失くすことができるのか?
これまたなかなか難解なアプローチだと伊集院さんは言う。
三木はこの虚栄心と付き合うのに、3つの方法を提案している。
それぞれ補足すると・・
①仮面を被り続けて虚栄を演じ切る。一生仮面を被り続ければそれが本性になる。伊集院さんは、ピンとくることがあるようで、芸能活動している自分には芸名があり、仕事でその役割を演じているところがある、本名の自分にとって芸名の自分は、ある意味理想とする部分もあるし、人生の半分は芸名で生きている、嘘をついているのとは違ってますよね、と話す。
先生は、英語のパーソン(人間)はラテン語のペルソナ(仮面)をベースにしていて、いつの間にか仮面が仮面じゃなくなっていると説明。
②虚栄心を満足させるために、日々ささいな贅沢をする、例えばちょっとしたお洒落をするとか。要は小出しにしないとボロが出るし、少しずつならつき合える。そこそこの虚栄は必要。
③‘人生とはフィクションを作ること’だと言う。人というのは孤独ではいられない、ひとりでは生きていられない。人の目や評価を絶えず気にしている。そういう気持ちから作られる人生は虚栄。そうじゃない人生がある。他者からの評価ではなく、自分の意思で人生を創造していけば虚栄を駆逐でき自由になれる。虚栄というのは全てがダメというのではなく、今ある自分より上を目指す、そのために努力する、これは一般的には向上心。
次に、一番厄介な感情、“嫉妬”。
愛と嫉妬は似ている。それは、どんな情念よりも術策的で、はるかに持続的な点において。そのため他の情念よりも長続きして人間を苦しめる。愛があるからこそ想像力が働き、嫉妬が生まれる。さらに、嫉妬には次のような特徴がある。出歩いて家を守らない、常に多忙である、つまり嫉妬がさらに想像力を働かせて、私たちの心を忙しくしてしまうという。
夫の携帯を盗み見して浮気を疑うとか愛があるからこそ嫉妬する、無関心な人には嫉妬しない・・などとスタジオで盛り上がる。
では、「人生論ノート」に書かれている嫉妬の対象は・・
「芸人仲間がお互い、いつか売れたいとか言ってる間は嫉妬はなく、むしろ愛があるけど、誰かが頭ひとつ抜けだしたら嫉妬が生まれて、なんであれがいいんだとか言って相手を貶めようとする感じですね」と伊集院さんは言う。
先生は、人は、自分を高めようと建設的な努力をしないで、相手の価値を陥れようとする、それを‘平均化’という言葉で表わしている、と説明。さらに、今、社会全体が‘平均化’を求めようとする傾向がうる気がすると言う。
伊集院さんはここでもピンとくることがあるようで、「SNSにその傾向がありますよね、自分は幸せだと自慢して炎上、さらに進んで、自撮りして‘ブスで困ったちゃう’てコメントを添える、それに対して、自信無い奴がアップするわけないだろとまた炎上する、そんな感じ?」と言う。
問題は、どうやったら失くせるか?
ひと言でいえば、“個性を認める”こと。自信が無いから嫉妬する、他人のようになりたいと思う、まず、この自分を認めることから始めるしかない、自分を認めることで他者も認めることができる、そして、あんな人になりたいと嫉妬して、仮になれたとする、そのときには自分ではなくなる、その人になるのだ、そういう風に諦めるしかない、“自分を変えようとする努力を止めたときに変われている”といっていい、と先生は解説。
続いては、“怒り”。
“怒り”について三木は、人間に必要だと肯定する一方、“憎しみ”については激しく否定。
先生の解説によると・・・
社会の利害関係の中で生まれる“怒り”も確かにあるし、いろんな不正が満ちていて、それらに“怒り”を覚えるのは必要。三木自身も“公慣”という言葉を使っていて、正義感から異議を唱えることは必要だと。社会に怒ることも出来ない現実に憤りを感じていた。
ここで“怒り”と“憎しみ”の分類。
“怒り”と“憎しみ”は対象自体が違う。“アノニム”は“匿名”で、ヘイトスピーチなんて最たるもので、個人ではなく、どこかの国の人に対しての感情。
どうしたら“憎しみ”から脱却できる?
“憎しみ”は反知性的だから、知性的であればいい、具体的に言うと、“個人レベルで相手を認める”ことが出来れば逃れられる。
伊集院さんは、明日にでも戦争が始まろうとしている時代に、人々を冷静にさせるこの本が敵視されるのは理解できますね、工夫して書かないと、と言う。
最後に“偽善”。(個人的に興味あり)
偽善者が意識しているのは、絶えず他人であり、社会だ。社会の評価や社会的な評判だけを意識して、求められた役割だけを果たそうとする。つまり、善・悪の価値基準を他人に預けて自分では判断しない。
これを三木は“精神のオートマティズム”と名付けた。
これが発表されたのは昭和16年8月。数ヶ月後の大戦を前に翼賛体制の重苦しい空気が言論界に垂れこめていた。
偽善者は、往々にして権力に媚びへつらい、時に他人までをも破滅させる。偽善についての言葉は国策に阿る言論人への警鐘だったのかもしれない。
聞きなれない“社会の道徳性”。個人よりも社会が優先されるべきという考え方と倫理が上から押し付けられる時勢を念頭に置いてこの言葉を使っている。そもそも、道徳は個人のモラルによるものだが、押し付けられる時代は非常に危険、そういうことに異を唱えない人たちのことを偽善者と言っている。こんなことが起こっていては社会も組織もダメになると思っていても、異を唱えない人たちが現れてきた時代だった。
今自分が何を言わないといけないか、それが自己保身と真逆の結果をもたらすとしても言わなければという表現者としての責任を決して忘れてはならない。
伊集院さんは、「‘これ大ごとになったら困るから黙ることを責任って思っていたんだ俺’って気づいた。‘言わなかった’ことも責任、チャンスがあったのに。言い返されることに怯えてはいけない、逆に自分の発言には責任も持ちつつ恐れず言う、SNSでの嫉妬や足の引っ張り合いという炎上レベルではなく、建設的な議論になるよう、大切なところでブレーキがかからないように、心に留め置こうと思う」と話す。
三木は思想を理由に殺されたわけだが、思想や信条を理由に殺された人がいるということを私たちは忘れてはいけないし、同じことが繰り返されないよう言うことは言う勇気を持とうと先生は締めくくる。
ところどころ‘?’と思う個所がございましたが、耳に痛い話です。“嫉妬”や“偽善”、“虚栄”は生きている限り、なかなか切り離れてはくれませんね。番組でのそれらと自分のとでは、何か次元の違うもののようで口に出すのもおこがましい気がしますが。けれど、ピンとくることもありました。退職前にいた会社などでも、つまり組織ですね、おかしいなそれ、ホントに社員や会社のため?と思うコトてんこ盛りでしたが、なかなか意見を言う勇気もなく流されるまま。たまに、恐る恐る口に出すと評価や評判に響いたり。また、上に立つ人が代われば“正義”もコロっと変わります。言うべきことを言わなかったのも“責任”って言葉にはグサっときます。突き詰めると、自分にはそこまで信念がなかったんだなと今は思います。
そうそう、“嫉妬”や“虚栄”は自分の生き方が定まったときに、いつの間にか影をひそめてくれてる気がします(現在まだまだですけど)。それと、歳を重ねて人生の残り時間が砂時計の砂がサラサラ落ちるように、少なくなってきますと、もったいなくって、“嫉妬”に割く時間が。いえ、嫉妬心は持ち続けてます、ある程度ないと原動力につながりませんからね。まあ、たまに嫉妬心が充満してきたなと感じましたら、自然の風景や美しいモノに触れるため外に出ますね。今でしたら、小さな新芽なんぞを見つけましたら、気持ちがリフレッシュします。ん?話がソレたな。やっぱり私はのんき者でございます。
日々感謝です。
黄色い桜花“御衣黄”はまだ早かった・・。
こんにちわ、SUMIKICHIです。
少し前でしょうか、桜が満開になる前に広島市植物公園にでかけた後、近所の田舎道とかの名もなき桜街道を見つけて、今年はもう満開桜は堪能させて頂きました!有難う!と思っておりました。が、HPでなにやら見たことのない品種、例えば黄色い桜花“御衣黄”などがあるようで、どうしても見たくなり、本日お天気も良かったので、急遽植物公園までひとっ走り。
平日なのに、ご高齢の方たちがお弁当持参で楽しそうでございました。そうそう、りっぱなカメラ持参の方もたくさん。
では、またまた記録写真がずらずら続きます。
お目当ての遅咲き桜はまだこれからのようでした。
すでに満開の木の桜は、風に吹かれて散り始めていました。
本日は、名前をチェックしてみました。微妙な違いがいまいちわからないものもございます。
↓ 1本、こんなのがございました。
花びらが散った後の様子もなかなか素敵だと私は思いますね。
ピンボケ
桜の花も素敵ですけれどツツジも素敵、見たことがない品種もありびっくり。これからこの一帯はツツジで埋もれる感じです。
カリンの花を初めて見ました。可愛いですね。
ロックガーデンを歩いていましたら、園内で植物を管理してらっしゃるオジサマが、是非見てほしいものがあると言って教えてもらったのが、こちら。
この花の状態は、春の顔、秋になるとヤリのようにとんがった先に丸い塊ができて、それが弾けて種が遠くに飛ぶんですよ、そしてどこかで芽をだすんですよ、って。この種が遠くに飛ぶという植物の本能については、これまでいろんな植物をテーマにした番組で必ず言ってますね。つい先日も、Eテレ「オイコノミア」で。
ついでに、海外の珍しい花も載せときましょ。名前をチェックし忘れたものもございます。
ついでのついでに我が家の芽。
ヤマモミジの花?
↓ 大きくなるとこんな感じなんですけど・・植物公園内にありました
いや、堪能いたしました。月イチで訪れるんでしたら植物公園の年間パスポートを購入した方がお得になるのかしら。そうそう、気づいたことがございます。自分一人で素晴らしい景色を見て感動するのは慣れてしまいましたが、ほかの観光客のみなさんが、「うわぁー、凄いきれいだねー」と感嘆の声をあげてらっしゃるのを傍で聞いていると、自分も気持ちが上がるんですよね。心の中で「そうですよねー」って相槌をうったりして。それと、初心者用の本格的なカメラが欲しいかなーなんて思い始めてまして・・ギターはどうすんだ!って話ですけど。
毎回、オジサマに教えて頂き勉強になります。有難うございます。どうやら私は、知らない人から教えられタイプのようです。そんなにアホ面なのでしょうか。
日々感謝です。
Eテレ「日曜美術館 ピカソ×北野武」を観て。呼吸=描く。
こんにちわ、SUMIKICHIです。
滅多に観ることはないEテレ「日曜美術館」ですが、北野武さんが初登場、しかも画家・ピカソについて語るということで拝見いたしました。ピカソについては、随分前に民放のバラエティ番組でオリエンタルラジオの中田さんが解説されてまして、その違いも確かめたくて。ざっくり備忘録しときましょ。有名な話ばかりでしょうけれど。
番組冒頭で、北野さんは「ビカソはあらゆるものを吸収し、それに技術が伴って螺旋階段のように上がっていく、貪欲さが凄い」と語る。
まずは、北野さんのお気に入りのピカソの作品「泣く女」を紹介。ビカソが56歳のときの代表作。大きな目から溢れる涙、ハンカチを握りしめ悲しんでいるように見える。心が揺さぶられるほど生々しい感情が吹き出しいる。
北野さんは、この絵を見て「単なる泣く女じゃなくて、下町の半狂乱になったおばさん、旦那が棟梁で、酒癖悪くっていつも殴り合いの喧嘩をしてるみたいな。これを見て、感情を前面に出して絵を描きたいなと思って悲しい絵を描こうとしたけど、悲しいだけじゃだめ、悲しい中に怒りが見えないと。じゃあ、怒りっていうことで、眉をつりあげちゃったら、ただの危ない人になっちゃって・・。」と話す。
ピカソ研究の第一人者、早稲田大学教授の高橋保二郎さんは、次の通り解説。
「泣く女」ほど、‘悲しみ’と‘怒り’を同時に一枚の絵の中で描けた作品はなかったんじゃないか、赤と緑、ブルーとイエロー、など不協和音でありながら、それがピカソの独特の破壊されたフォルムとマッチしている。ピカソ以外の画家ではできない表現、だと。
絵のモデルは、愛人だった写真家のドラ・マール。知的で才気あふれる女性だったが、感情の起伏が激しくよく泣いた。ピカソは、あらゆる試みを繰り返しながら何枚もの「泣く女」を描いた。顔の向き、感情の大きさ、色彩・・そして、ついに、複雑でそれでいて強烈な「泣く女」を生み出した。
ここで、‘感情を描くのは難しい’と言う北野さんへの質問。どうして、暴力を突き詰めたような映画を撮るのか?
例えば、静止している振り子があるとして、一方が‘暴力’、反対側に‘愛’があるとしたら、‘暴力’にマックスで振り子が振れたら、今度は‘愛’に振れる。物凄い‘暴力’は、物凄い‘愛’に変わる位置エネルギーがあるとよく説明する、中途半端な暴力は、中途半端な愛でしかない、と北野さんは答える。
さらに、「泣く女」を見つめて言う。
泣くのと怒るのと同時に爆発してる感じ。ピカソが画家だなと思うのは色使い。原色って、生(なま)って感じがして、悲しみも生、怒りも生、生どうして混ざり合って・・凄い。面白いのが、じーっと絵を見てて、ふと目をそらすと、絵の細部なんか思い出せない、相当集中して見ててもそれをはぐらかすような、よくここまで崩せるなって思うね、と。
ピカソの言葉を紹介。
そんなピカソがある色で自身のスタイルを確立。有名な「青の時代」。紹介されたのは、20歳の頃の作品「海辺の母子像」。寒々とした青い海と青い空、子を抱く母が佇む絵。当時パリにいたビカソは監獄に通ったという。我が子を監獄で育てなければならなかった女性の悲しみに引き込まれる。青で悲しみを描く、こうした作品が画家ピカソの出発点。
近年、この絵に関して、X線をあてると下に別の絵があったことが判明。ドレスを着た若い娘、下の方には花もありごく普通の女性像。調査では、白やオレンジ、黄色など明るい色彩が使われていたことがわかった。
このように描き直した作品は、この時代たくさんあり、ピカソはどんどん、違う描き方を試みていきたかったということが表れている。若きピカソは格闘していた。悲しい表現を生み出すめ、キャンバスを買うお金がなければ、それまでの絵を塗りつぶしてでも描きたかったのだ。
ピカソは、スペイン・マラガで生まれる。母親はピカソの幼い頃のことを「言葉を覚えるより先に絵を描いていた」と言っている。11歳の頃のデッサン「石膏トルソの習作」を見た画家の父親は、自分を凌駕するような技術に舌を巻いたという。19歳、ピカソはパリへ。しかし、芸術の都は甘くなく、思うように絵は売れなかった。ある日、共にパリにやって来た友人が自殺。絶望の淵でそれでも筆を握り続け、苦難の果てにあの色に辿り着く、青い「自画像」。誰にも似ていない独自のスタイルがここで確立される。ピカソがピカソになったのだ。
‘青’といえば、北野さんの初期の監督作品「あの夏 いちばん静かな海」が思い起こされる。耳に障害がある若い男女の物語。空や海も青い、そしてヒロインの気持ちも青。この印象的な‘青’は‘北野ブルー’と呼ばれ、北野さんにとっても‘青’は重要な色だった。北野さんは、ロケ地の背景に多いセメントが青みがかったグレーで、全体モノトーンにしたくて‘ブルー’が美しいなと思った、‘青’って面白くて、ピカソに限らず北斎もそうだし、‘青’にとりつかれていく画家が多い、と話す。
しかし、ピカソは「青」の時代を3年で捨ててしまう。現れたのは明るくなった作品「サルタンバンクの一家」。どこかはかなげな旅芸人を柔らかな色彩で表現。この頃になると、恋人もでき、少しずつ絵も売れた。
30代でさらに変わる。対象をバラバラに分解して、その存在感が引き立つよう組み合わせた「ぶどうの帽子の女」。これが“キュビスム”。絵画の革新者・ビカソの誕生。
40代になると、「海辺を駆ける二人の女」からもわかるが、ギリシャ彫刻と出会い、のびやかな生命感溢れる作風が開花。第一次世界大戦後、束の間の平和な時代を反映するかのような光景。同じ画家とは思えないような変貌を遂げるピカソ。
同じスタイルを続ければマンネリ化する、そして、ひとつのスタイルで戦争の時代、平和な時代を表現できるのか、ピカソのスタイルの変貌はビカソ自身と時代の変化に応じていったものだと言える。
北野さんも、映画「Dolls ドールズ」では、ブルーとうって変って鮮やかな色彩で画面を彩り。次々とチャレンジしている。
北野さんは、それはあくまでも過程であり、一番つらいのは、いつまでも‘北野ブルー’って言われること。それは、その映画でのこと、飽きるんですよね、同じことをいつまでもやっていると、言う。
やがて、ピカソは戦争のうねりに巻き込まれる。スペイン内戦勃発。そんな中、パリ万博のスペイン館の壁画制作を依頼される。当初、芸術の自由を謳い上げるテーマを構想した。しかし、ある悲劇がおこる。ナチス・ドイツによるスペイン北部の町・ゲルニカへの無差別爆撃。ピカソはテーマを一変させる。完成した作品「ゲルニカ」は横7.8m×縦3.5mの大作。愛人だった写真家のドラ・マールが撮った制作過程の写真を見るとナチス・ドイツへの怒りや惨状などを象徴していた握りこぶしなどのモチーフが過激なものから随分柔らかくなっている。
ピカソにとって作品とは、その時代や場所を離れて永遠に生き続けることを願ったもので、当初の握りこぶしを排除して人類共通の遺産として作り上げたのだろうと解説。時空を超えて人々の心をつかむには・・・と何度もこの絵を見つめ直した、とピカソは話していたようだ。この一枚の絵の中に、人間が生きて行く上での悲しみや希望など全てが盛り込まれているね、と北野さんは言う。
北野さんも映画を作るときに普遍性を意識するのか?
禅宗のお坊さんとかが言うように、人間は‘生まれて、飯食って。死んでいく’こと、その中でいろんなことがついてまわるんだよと言われるとそうかもなと、その一部を切り取って恋愛映画や暴力映画、感動映画なんか撮ったりするけど、所詮人間は‘生まれて死ぬこと’になっちゃうんだけど、その単純さをアーティストとかが広げていく、どこにスポットをあてるかが勝負なんじゃないかなぁと語る。
「ゲルニカ」や「泣く女」の後、あまり評価されなくなる。力の衰えを批評する人もいた。それでもピカソは描き続けこう言う。
今、ピカソの晩年が見直されている。何事にも捉われない自由奔放さ。特別に借りた本物の作品がスタジオに。亡くなる一年前、90歳のときの作品「男の顔」。ビカソって聞いたからかなぁ・・聞かなくても凄いと思うけどね、俺、と北野さんは絵を観て言う。
ピカソは、絵を描くとか描かないとかそんな次元にいるのではなく、朝起きて、見たものを‘いいねー’なんて言いながらササっと筆動かしてて、まるで息するかのような域にまでいたのかなと、絵の評価も彼には関係ないんじゃないかなと、子供みたいな絵が描けるようになったっていうのも自分で評価しなくなったってことじゃないかな、と話す北野さん。
今後の映画作りについては、今まであまりにも考えてこなかったんで、今後は台詞ひとつにもこだわりを持とうかなと思ったりするねと笑う。
以上の内容は有名な話でしょうけれど興味深かったです。こうも語る人によって切り口、見方が違うものかと。この番組では女性遍歴や盗作疑惑などは一切省かれていまして、シンプルでしたし。「ゲルニカ」の解説の切り口も違ってました。売れない時代のことや晩年の子供のような絵も存じ上げませんでした。バラエティ番組を観て、そんなに詳しくなかったピカソのことをちょっと調べてみようと図書館で本をお借りしたんですが、熟読してないからこぼれ落ちているところが多々あり。
晩年の絵を拝見して、ピカソの絵だと言われなくても凄い!と思えるかなと自身に問いかけてみましたが、正直自信ございません。有名画家の力作揃いの中に飾られていましたら、面白いし、インパクトがあるので目に留まるとは思いますけれどどう凄いのか説明できないでしょう。が、ピカソの「見たいように見ればいいのだ」という言葉に励まされます。それと、北野さんが出演されることに興味がありましたので満足です。
日々感謝です。
急遽、浅田真央さん引退特番・・ジャンプも凄いけれど、美しいスケーティングが好き。
こんにちわ、SUMIKICHIです。
本日、急遽午後7時からテレビ朝日で浅田真央さんの引退特番が放送されましたね。ソチ五輪後から、薄々覚悟してはいましたが(私が覚悟してどうすんの?)、正式に公表されると本当に寂しさを感じます。私の年齢の半分ですのに、何やら偉業を成し遂げた偉人さんのようで素晴らしいなと思います。一見飄々とした普通のあどけない女子って雰囲気なのに、どこにあんなパワーが潜んでいるのか不思議です。
真央さんが、初出場で初優勝した15歳でのGPファイナル、観てました。こんなにあどけない女の子なのに凄いなと画面にくぎ付けになったものです。翌日会社で、ニュースで映った15歳の真央ちゃんの演技を見て、みんなで「そりゃ優勝するよね、次元が違うよね」なんて会話したシーンもしっかり覚えています。衣裳までもです。
それからの活躍は言うまでもなく。本当に彼女は凄いなと深く思い始めたのは、五輪で銀メダルを獲ったあと、佐藤コーチに教えを受け始めたあたりでしょうか。それまで積み重ねてきたものを壊すことにもなりかねないのに、一から基礎をやり直すなんて、勇気があるなどころの話ではないと思ったからかな。でも、それはとても良かったんですね、滑りが、見え方が全く変わったような気がしていました。
それと、誰もが忘れないあの試合、ソチ五輪での失敗のショートから復活のフリーの演技。観ていました。ショートはもう何も言えなくて、フリーも祈るような、でもショックを受けても良いように半ば諦めつつ、ドキドキしながら。ジャンプを次々と成功させて、最終のステップあたりでは不覚にも涙が滲んでました。よくぞここまで、なぜこんなことが出来るのか、きっとここまでくるのに見えない努力を死ぬほどしてきたんだろうな、心が半分折れていたとしても体がこれまでの努力を裏切らなかったということなのか。
さらに、真央さんの凄さを知らしめるための神様のいたずらなのか、お計らいなのか。金メダルを獲るよりも心に強く深くいつまでも心に残るものとなったんじゃないかと思っていました。まあ、金メダルが一番良いんですけどね。あの感動は、元気を貰えたと単純に言ってはいけないんじゃないかとも思ったりして。羽生さんにしても真央さんにしても、こだわりを持って突き動かされて人は、もう自分自身との闘いなんでしょうね。私は、トリプルアクセルや4回転ジャンプが数多くなくても、真央ちゃんの基礎がしっかりあった上での複雑なステップ、指先にも柔らかく神経が行き届き、風がなびくような美しいスケーティングが好きです。羽生さんもです。もちろん、それらのジャンプあってこそ、というのは踏まえた上で、です。
顰蹙を買いそうですが、引退について冒頭で寂しいとは書きましたが、私、正直に申しまして、ちょっぴりホっとしています。競技フィギュアではなくアイスショーなどでの自由な表現者としての真央さんに期待します。今後どうなさるのか不明ですけど。ですから、今回の引退は、個人的には良かったね、と言って差し上げたいと思います。そして、ありがとうございましたと。もう充分苦悩されたと思います。
画面では、繰り返しくりかえし、過去の映像が映し出され、スタジオでも似たコメントを繰り返しくりかえし・・でも、観ていて、くどいけれど飽きませんでした。と申しますか、そうだ、録画しとこ、ってなりました。真央さんは、自分がしたいからしてる、誰のためでもなく(亡き母のためってのはあるのかな)、変な欲もなく、ただそれだけなんでしょうね、だから人は純粋に応援するのでしょう。自分の理想とする姿を重ねてみたりもして。
何が言いたいのかよくわからない記事ですが、今の心境を綴ってみました。明日、真央さん自身の口から語る会見が予定されているんですよね、拝見させて頂きます。
日々感謝です。
新番組!Eテレ「あしたも晴れ!人生レシピ〜ライフチェンジ!新たなトビラが開く〜」を観て。
こんにちわ、SUMIKICHIです。
Eテレ「団塊スタイル」の後番組、「あしたも晴れ!人生レシピ」がスタートしましたね。番組HPでは、心も体も変化し、この先を考え始める50代以降、 「これからどんな人生を歩んでいきたいのか」と問い始めた人たちを応援し、 健康、住まい、お金、ファッションなど、幅広いテーマで“生活を豊かにするヒント”をお届けする情報番組。あなたの人生が明日も晴れますように!という思いを込めて・・とあり、ほぼ前番組と同じ感じですね。MCは賀来千香子さんと高市佳明アナで若返ったようです。53歳の私としましては、引き続き視聴いたしました。
初回のテーマは〜ライフチェンジ!新たなトビラが開く〜。人生の後半戦、これまでとは違う生き方に挑戦し、新しい人生の扉を開いた女性たちを紹介。
では、印象に残った女性をざっくり備忘録しときましょ。
熊本県南阿蘇村に住む小松丸昌子さん、52歳。
7年前、無農薬のハーブや野菜を使った化粧品を販売する会社を設立、‘自然のもので人はきれいになれる’というこだわりの化粧品は工場近くの道の駅や移動販売などで売られ、人気が口コミで広がり今では従業員10人、取引先は50社にまで増え、年商4,000万円までに成長。
熊本市内で生まれ育った小松丸さんは、福岡の短大卒業後、もともと会社経営には興味がなく花形だったコンビューター会社に就職。4年後、より良い働き口を求めて化粧品会社に転職し、最初は事務職だったがやがて化粧品が肌に与える影響について関心を持つようになる。その時代、急にアレルギーやアトピーが言葉として出てきて、なぜそうなるのかを勉強した。そこで思いついたのが安心・安全な化粧品作り。
そのアイデアを実現させようとした背景には当時40代という年齢が大きく影響した。歳をとるにつれ、自分がどうなりたいかというのが凄く重要になってきた。そんなとき、定年退職後、熊本市内から南阿蘇村に移住した母・勝子さん(現在72歳)が無農薬の野菜作りをしていたのを見て、これで化粧品を作れないかとひらめいた。日頃自分が食べている野菜と比べても味が濃くてしっかりしている、そこに生えているハーブが他の所のものより香りが良かった、などが起業のきっかけとなった。
勝子さんは、「いろんなお洒落な野菜が食べたいと思って作ってただけなのに・・気づいたらいろんなことやらされてる」と笑う。
そう決めてから、小松丸さんは45歳で会社を退職。自分の退職金と地域の補助金を合わせて、平成22年に約2,000万円で会社設立。「これは私がやったものだというものが何もなかった。何か残すものが凄く自分には必要だった。自己満足だけど。また、50代、60代、70代になったときに自然の肌でいたいな、どうなっていたいかを考えた」と当時を振り返る。
設立後、一年かけて自分の理想とする化粧品を開発し、販売開始。使用した人からの‘他のものは使えなかったけど、こちらのは肌に合う’という声に勇気づけられた。社長になった小松丸さんは細々した作業も自分でやり休みがない。が、つらさはなく生甲斐となっている。楽しみにしているのは、従業員たちとの昼食会。おかずやご飯はみんなの手作り、独身の彼女にとって、ここがホッとできる家族の団欒の場。「みんなが私のやりたいことについてきてくれる。とても感謝している」と素敵な笑顔で話す。
そんな小松丸さんには、まだまだやりたいこがある。乾燥したハーブやオーガニックで育てたブルーベリーに紅茶や紅いもなどをブレンドしたお茶、うるち米と古代米をブレントした玄米コーヒー、オレンジやイチゴ、生姜などの材料にハーブを混ぜたハーブティーなど、様々なオーガニック商品を世に送り出しているが、それらの材料を作り始めて気づいたことがある。
農業は、生産して出荷するだけなら利益は凄く少ない、機械代でほぼなくなる。小松丸さんは、「うちで加工することによって付加価値をつけて売り、オーガニックの農家さんを支援出来れば未来の農業になるなと思い頑張っている」と言い、2年前、オーガニック生産組合を作り理事長に就任。そして、去年は観光協会の理事にもなり、南阿蘇村をアピールするため農業体験などのイベントを開いたりして精力的に活動を開始している。
その想いを強くしたのは、熊本地震の経験。一部のビニールハウスが壊れ、田んぼに土砂が入り、復興とともに南阿蘇をより良いカタチに変えていきたいと考えている。「南阿蘇は空気もいいし、病気もなくなるくらい良い場所。元気がないときにここに来て、美味しいものを食べて健康になり、南阿蘇に行けば癒されるよといわれる場所にしたい」と。
小松丸さんの生き方を観て、何より表情がいきいきして溌剌とされているなと感じます。がむしゃらに肩肘はっていなくて、自分の想いに正直に動いていらっしゃる。その想いは、自分さえよければ、ではなく真逆の、みんなのために、世のために、小さくても自分ができることをやる。想いがシンプルです。私のように欲が全て自分に向いているのが恥ずかしくなります。
人生50年の時代から、現代は人生100年の時代で、自分の人生を設計して舵取りが可能な時代。言い換えれば、折り返し地点の50代(本当は40代かな)で、重要なこととそうでないことがわかってくるので見つめ直さないとこんなはずではとなってしまいますね。いえ何もりっぱにとかお金持ちにとかではなく、自分にとって何が大切か、何をして生きたいか、どうなっていたいかですよね。
人生後半の生き方って、周囲にはまだまだモデルが少なくて・・。人それぞれ状況が違うので、正解も見本も成功もないんですけどね。番組を観ながらつらつら考えましたら、自分のやりたいことをしたいから早期退職したものの、少し先の自分の姿(目標)が具体的な映像としてまだイメージ出来ていないなぁー、例えば、自分が歌をうたうことと世の中のためになることとを結びつけることができるかなーとか詰めが非常に甘いです。と申しますか、ただ好きに歌い続ければいいんじゃない?必然があれば広がるし、とにかく閉じこもらず開かなくては、とも思いますし。まだまだ理屈が先行する日々でございます。
でも、日々感謝です。
やっぱり満開の桜のアーケード下を歩きたい!雨降る前に。
こんにちわ、SUMIKICHIです。
本日朝、また何を思ったのか、まだ桜が満開になる前にふらっと行ってみた土師ダムに再び出かけてみました。明日雨が降るとかなんとかで、今しかない!と。ちょっとお天気は良くなかったんですけどね。
いつものように写真だらけ、しかも似たような写真になります。もし万が一、近郊にお住いの方がこの記事をご覧になられてご興味がございましたら、まだ蕾がすこーしありましたので今週末の土日も圧巻の桜が楽しめるのではないでしょうか。本日も結構ご家族連れが多かったです。
まずは、噴水に向かって左岸から・・
湖岸全体に桜の木々が植栽されてます。お手入れ有難うございます。
サイクリングロードでもあるので、この長い道には自転車ですね。本当は乗るつもりだったんですけどね。
どの方向を見ましても、アーケード状態です。
緑枠は新しい花で中心が緑がかっている、赤枠はそろそろ散る頃で中心が赤くなっている、というのが新旧の見分け方だと、本日夕方TVローカルニュースで解説してました。え?ご存じ?
続いては、反対岸へ・・
この区域は、ひろーい広場があり遊べる空間ですね。
路上ならぬ広場ライブをされている男性がいらっしゃいました。自由だなー、私もやりたいなと思っていましたが、実際に拝見しますと、独りは勇気がいりますね。
この屋台はいつまで出店なさるのか不明です。
次は、この広場と駐車場の間にあって桜の木々がさらに密集した区域。
この方が、周囲に理解されなくても未来の村のことを考え、独り開拓し続けたということのよう。前回はここまで来ていないので読んでおりませんでした。
四方どっちを向いても区別つかないほどの桜、桜、桜・・・
ピンクの桜も数本ございまして、綺麗でしたので少し。
歩きました、本日は。4kmはいったかと思います。実は、ここに来るまでの県道沿いに、これまた素晴らしい名もなき桜並木がございまして、そこも歩いたのでございます。どれくらいかな・・1kmはあるんじゃないかな、川土手両岸に桜並木が。空撮したい感じです。後日別記事にしときましょ。
日々感謝です。