今日も、生涯の一日なり

自分軸で生きると決め早期退職した50代独女のつぶやき

Eテレ「100分de名著 維摩経〜第3回 縁起の実践・空の実践〜」を観て。ここでも“泥”が・・。

こんにちわ、SUMIKICHIです。
すっかりレギュラー視聴するようになったEテレ「100分de名著」。今月は「維摩経」。聖徳太子によって日本で初めて解説された仏典の一つ。

かの文豪・武者小路実篤も「維摩経を読んで偉大な知己に逢ったような気がした」と述べるなど、日本人に親しまれてきた経典です。しかし、現代人には、意外にその内容は知られていません。第3回は、維摩がもたらす予想外の答えや不思議な出来事から、単なる観念の遊戯ではなく、生きるための智慧として示された大乗仏教の精髄を学ぶ、というもの。指南役は、如来時住職・相愛大学教授の釈徹宗さん。著書「なりきる すてる ととのえる」「お世話され上手」で知られる宗教学者・僧侶。

お恥ずかしながら、聞き馴染みのない「維摩経」。ざっくり(としか言いようがない)備忘録しときましょ。      

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前回、文殊菩薩維摩を見舞って病状の話をしたところまでだったが、今回は、文殊はふと、維摩の部屋が空っぽなのに気づき、どうして?と尋ねると、空だから、と空の話をし始めるところから。

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空とは、無分別?整理すると・・初期の仏教では、空は‘牛はいない’という自体を‘牛は空である’と表現し、単純に‘無い’だったが、大乗仏教では、一切の固定観念を外す方向に空の思想は発展。様々な物事の垣根を外し、全てを分け隔てなく捉える‘無分別’を目指した。(???)

“空と縁起”。そもそも、この空というのは、初期仏教における“縁起”の教えを発展させたもの。“縁起”という独特の因果律に立つところに仏教最大の特徴がある。例えば、ここ(スタジオ収録)の場は、どんな縁によって成り立っているかというと、そもそも「100分de名著」という番組がある、我々出演者が風邪もひかず事故もなく、たまたまここに来た、スタッフの皆さんが集まって、という事象によって一瞬この場が成り立っている。という風に物事を考えて見ていくのが“縁起”の立場。

それが、大乗仏教では“縁起”の思想が進化して、全てのものは関係性で成立しているというところまでいく。あらゆる現象・存在は固定的ではなく、実体はない、それが“空”という立場。

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ここで伊集院さんは・・
例えば、僕が太っているのは、カロリーをたくさん摂ったから、なぜ摂るのか?ストレスによって食べちゃう、そのストレスはなぜ?と考えていくと、幾つかの複合的な要因があって結果、今太っている、という縁起についてはわかる。けれど、それを“空”に転換し始めると、とたんにわからなくなると話す。

指南役は・・
自分のなまけ心が原因で太ったなどと特定の原因にしがみついて、このなまけ心を失くして‘刻苦勉励’しなければならないとなりがちだが、それは言ってみれば、きれいな“花”の周りの“雑草”を抜こうとするような努力。初期仏教ではそういう努力を考えたが、大乗仏教となると、“花”と“雑草”を区別しているのは自分の心だという見方をする、区別なく見ていこうというのが“空”。

すると、伊集院さんは、そもそも太っているって何だよ?みたいなこと?と尋ねると、指南役は、そうすると太ってるの意味も変わるし、日常生活の意味も変わる、つまり、自分が何となく暮らしている‘枠組みを疑え’というところから“空”への第一歩が始まると説明。(???)

 

これから“空”についての問答が始まる・・

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“六十二見”とは?
仏教以外の思想や信仰のこと。維摩は“空”へと至るために、仏教以外から学べと言う。とても不思議な理屈。異説・異論を排除しないという大乗仏教的態度、もともとは排除していたが、“空”が発展することによって、学ぶという心さえあれば異論からも仏教がわかるからと。この文殊維摩のやりとりは、まさにらせん状に論が深まる仏教の手法。

問答はさらに続く。

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これは、苦しみの中でどう生きれば良いかという問いでもある。維摩の答えはここでも“空”へと向かう。

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我々は生まれた限り、刻々と死につつある。生と死の連続体である。そのように生命や世界を捉えると、自分にしがみつく心が弱まり、苦しみが低減。この取り組みが“空の実践”。実体的・固定的に捉えないモノの見方が大事。しかし、‘これは空なんだ’と空に捉われてもだめ。このことを維摩経では“空病”と言っている。‘空たちがいない!’と思ってることも空に拘っていることになる。(???)

“空”の思想は、真ん中が空。真ん中に、理論を持ち込むと、正統・異端・順列が生まれる。真ん中がからっぽだったら、みな同じように丸テーブルに着席可能。真ん中が空いていることがポイント。

 

さらに維摩は次のように語る。

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悟りに安住しない、日常の中を生きる。このあたりが、維摩経に影響を受けた日本仏教の方向性と考えて良いだろうと指南役は言う。日本仏教は、出家の形態もあまり重視せず、普通に暮らすような仏道を目指した。半僧半俗の層が厚いのが特徴。

 

では、不思議品に。

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維摩文殊菩薩の話を聞いていた舎利弗が椅子を探すシーンから始まる。

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それを察して維摩は言う。

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慌てて答える舎利弗に、維摩は意地悪な言葉を投げかける。

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さらに維摩は神通力で3万2千もの巨大な椅子を出現させる。維摩文殊も座れるのに、なぜか他の者たちは座ることが出来ない。困り果てた舎利弗の様子を見て、維摩は助言する。

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その言葉に従うと、みなもようやく座れた。不思議な現象に驚く舎利弗維摩は言う。

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何を意味してる?
悟りの世界は、通常の知恵では認識できないという神秘的な表現。この世界の認識を変えろと言っている。

 

続いて、観衆生品。

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維摩の部屋に天女が現れ、維摩文殊の間で素晴らしい教えが説かれるごとに、花を振りまいた。菩薩に振りかかった花びらは床に落ちるのに、舎利弗たち弟子の体には張り付いたまま離れない。懸命に払いのけようとする弟子たちを見て、天女は尋ねる。

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すると天女は答えた。

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振ってきた花は何を意味する?
舎利弗にとっては欲望の象徴でしょうと指南役は言う。菩薩たちにとってはただの美しい花びら。舎利弗たちは、この花びらにこだわりがあるため、返ってくっつく、こういう欲望は払わねばならないという思いに捉われているので、ますますくっつく、そういう状況。

伊集院さんは、そんな舎利弗のことを好きになっちゃいそう、本当に一生懸命で、観察しようとすることで自分をがんじがらめにしていく・・と話す。

 

舎利弗は、天女があまりにも見事に仏法を説くので、最後に凄く感じ入って・・

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当時、ヒンドゥー文化圏では、女性は汚れたものであるという文化があった。これが、仏教にも投影され、女性が悟りを開く時には、“変成男子(女性の身のままでは仏に成れないのでいったん男子に変わってから成仏するという思想)”といって、いったん男性になる必要があった。


すると天女は、舎利弗を女性に変え、自分は舎利弗になった。舎利弗は自分が今まで見かけの現象に捉われてきたことに深く気づく。

伊集院さんは、とても優秀な女社長さんに対して、まるで男みたいですね、女にしておくのはもったいないってお世辞を言う、勘違い野郎がこの場面の舎利弗ですね、とわかりやすい例えを言う。

 

そんな不思議な場面も一段落して、仏道品へ。

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迷いがなければ悟りもない。悟りを開く種があるとしても、空中では芽も吹かず花も開かない。泥の中にあってあってこそ芽を出し花が開くように、悟りなしに迷いもなく、迷いなしに悟りもない。我々日常にも当てはまる深い言葉。芽を出し花が開いても、自分の実力だと思いがちだが、むしろ、周りの泥があるからこそ花は開くんだという物の見方。

 

続いて、維摩の詞が登場。長い詞の中の一部だが、指南役の好きな部分らしい。

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こだわりのない心で活動をすれば、人々に恵みを与える“空の実践”になる。様々なコミュニティに関わる“縁起の実践”、そこにしがみつかない“空の実践”、この2本柱の態度が、地縁・血縁が薄れた現代には必要。

最後に伊集院さんは、ふわっとですけど、‘あっ、行けたら行く’っていう人になりたい、来ることをみんなに望まれてるんだけど、もし来れなくても、あの人が来れないんなら仕方ないやって、ほんとうに力の入ってない人が“空”っぽいですね、維摩っぽいですね、と締めくくる。    (完)

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最後の伊集院さんのコメントに一票!って、なんとなーくでしか理解出来ておりませんけど。しかし・・なんですねぇ・・この備忘録、本当に備忘録なのかしら。番組内容をなぞっていて、ん?へっ?で?みたいな消化不良、完璧に。正直、本人は結構面白くて、楽しんではおります。

こめかみがぴくぴくと反応しましたのが、天女に対して言った舎利弗の言葉。何の悪気はないにしろ、いえ、ないのは返って始末におえないかな?、“女性のままで、なぜ男性にならないのか”という言葉。私はフェミニストではありませんが、どうにもこうにも、この古い価値観に多くの女性は苦しめられてきたと思います。まあ、この歳になり第一戦を退いてからは、心波打つことは激減してますけれどね。それに、世の中かなりのスピードで変化していますから、随分女性も生きやすくなってるのかな。ん?もしかして、こんなことに捉われ続けるのは“空の実践”に反するのでしょうか。

ふと・・人類みな“空の実践”パーフェクト集団になりましたら、どんな世界になるのでしょうか、面白味のない感じがするのですけど・・。

そうそう、泥があるから花が咲くというフレーズは、つい先日知ったことでもあります。つながってますねぇ。

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日々感謝です。