Eテレ「100分de名著 ガンディー『獄中からの手紙』」第3回〜非暴力と赦し〜を観て。殴られたら痛いけど・・。
こんにちわ、SUMIKICHIです。
最近よく観る Eテレ「100分de名著」。今月は、暴力ではなく精神の力でインドを独立に導いた指導者マハトマ・ガンディー。諸説ありのようですが。
第3回はガンディーの非暴力思想に込められた深い意味を読み解いていく、という内容。では、ざっくり備忘録。
まず、“非暴力”をヒンドゥー語で云うと“アヒンサー”、“ア”は‘否定’、“ヒンサー”は‘傷害・殺生’、合わせて‘傷つけない・殺さない’という意味で、絶対手を出すなよ、というわけではないよう。ガンディーはこのアヒンサーの概念で独立運動を進めようとした。
ガンディーが非暴力運動を始めたのは、南アフリカに滞在していたときのこと。1907年、南アフリカでアジア人強制登録法成立。8歳以上のインド人に対し、指紋登録を義務化、違反者は罰金等が科せられるというもの。ガンディーたちは、こんな身勝手な法には従えないとして身分証を燃やし始める。たとえ罰せられようとも暴力で抵抗しないことを決意。その結果、ガンディーは投獄される。その後、毎日のように、ガンディーの意志を受け継いだ人々が投獄され続け、刑務所はあふれんばかり。困ったイギリス人は解決案を持ちかけ、ついにはインド人の人権を取り戻すことに成功。
1930年。インドに戻ったガンディーは、イギリスが塩の製造を禁止していたことへの抗議運動のため行進をする。これが、塩の行進。ガンディーは、非暴力の精神で行いなさいと語りかけ、人々は警官隊にひどく殴られながらも進み続けた。
スタジオの説明で、いっそ、人々が手を出してくれたら話は早いのに、適当な罪状で罰せられるし、という話もあったそう。また、行進は、殴られて怪我をしたら列の後ろにまわり歩きながら手当をうけ、また列の前に来て殴られたら後ろにまわって・・を繰り返したよう。
非暴力の方が強い意志・勇気が必要
暴力を使う人間の方が恐怖の中にある
ガンディーは「獄中からの手紙」でもこんなことを書いている。
“無畏”とは恐れがない、ということ。
殴られる人は身体の痛みを感じますが、ガンディーは、殴っている人間の心の痛みが殴られている人間の肉体の痛みを上回る時が来るであろう、殴っている人間の心を動かす、内面から生まれる善良なるものを喚起させる、という積極的な概念として非暴力を提唱。
また、アヒンサーは‘愛’である、という言い方をしている。
‘愛’は、自分と相手との間に‘違う’部分と‘同じ’部分が両輪になって現れるもの、つまり、他者との違いを認め、分かち合うことが本当の‘愛’が生まれるとガンディーは考えた。‘非暴力’と‘愛’をつなげていることが重要。
日本でも抗議デモなどで暴力的な言葉を抗議先に向けているが、ガンディーがもしいたら、その言葉は暴力じゃないですか、と言ったかもしれない。暴力というのは、一発殴るとか物理的なものだけではなくて言葉もまた暴力になる。殴られるより、ひとことで
グサッと言われる方が大きな傷になることがある。‘傷つけない’という言葉には‘心’も含まれる。
伊集院さんの身近な例として、SNS上でのやりとりで、「伊集院さんのあの言葉は間違ってます」と書かれて、「(一瞬ムッとするけど)ありがとうございます、勉強になりました」ですませておけば非暴力なのに、なんだかやりこめられた感が嫌なので「それ以外のところは全てご納得頂けたということでよろしいんですね」とひとこと余計な文句をいれてしまい、「どうでもいい細かいことだとは思いましたが、なんちゃらかちゃら」と返答が来て延々続く・・つまり炎上的な状況を話す。
ガンディーは、暴力的な手段によって手に入れた勝利は勝利ではないと考えた。長い目でみたら、勝利をのがしている、、相手がより憤りを持ち怒りの連鎖がおきてしまう。
続いて、非暴力は手段?
私たちは、全く暴力をふるってはいけないと捉えてきたが、そうではないらしい。例えば、女性が目の前で襲われていたら、指をくわえて見ているのが非暴力なんですか?って聞かれたとき、ガンディーは、必要であれば暴力を使うかも知れない。非暴力というのが臆病の盾になってはならない、非暴力はあくまで手段、と言う。
常に私たちの手でコントロールされなければなせない、‘愛’がなければやってはいけないと戒めている。やられたらやりかえせ!と思うが、怒りや憎悪こそが欲望だと言う。だから、その怒りを超えないといけない、その先の‘赦し’をつかまなければ真のアヒンサーとはいえない。
では、どうすれば怒りや憎悪を超えられるのか?
向けている怒りこそが内なる敵なんじゃないか、この内なる敵を乗り越えないといけない、それには‘赦し’、許せない!と思うことこそが欲望。
イギリスに対してもそうなのか?
ガンディーは、イギリスとともに祈れと言っている。イギリスとインドは共犯関係ではないかと考える。イギリスはインドを搾取することで利益を上げようとしている、しかし、インドもイギリスがもたらしてくれる近代的な文化・文明を享受しようとして招き入れたのではないか、この両方の欲望の総合体が支配ならば、超えなければならないのは単なるイギリスの支配ではない。その上のイギリスも捉われている近代っていうものを両方から覆していこう、と次のステップに向かう。
ガンディーの運動は、ときに消極的だと評される。ガンディーの言葉には否定形が多い。何かを否定すると消極的にみえるが、そうではない。これが正しいんだ!という人たちは、他者に対して非寛容的・支配的になりがち。“ない”という概念は自己反省や戒めにつながり、これを積極的と捉えていた。
最後に伊集院さんは、ここまで素晴らしいなと思って見てたけど、最終回で何が起きたのか知るのが怖い、と話す・・第3回終了。
的外れな感想かなとは思いますが・・死刑問題などについてはどうお考えになられるんでしょうか、なんてことをつらつら思いながら観ました。それと、第1回の感想にも少し綴りましたが、これまでの学生時代、会社員時代に、‘耐えてこそ’‘負けて勝つ’(こんなことはガンジーは言ってないですね)などと思いながら過ごすこともありましたね。誰もみな、そんなときありますよね。しかし・・表面的には出来ても、腹の底から‘赦し’にまで到達してたかというと疑わしいです。それと、言葉含めて暴力的に手に入れたものは、一瞬獲得感は得られますが、すぐに心が腐り始めるのを感じます。自分自身のことだけでも、上手くコントロールできないのに、民衆をまとめるなんて、やはり偉人として語り継がれる人は違います。たった100分で理解できました!というのはおこがましいです。
日々感謝です。
料理嫌いの初“かぶ”料理、そして、この鳥は何?
こんにちわ、SUMIKICHIです。
数日前、劇団団長の実家で収穫した“かぶ”を頂戴し、昨日のお昼に料理してみました。初“かぶ”料理です。
と申しましても、ネット検索で超簡単レシピをさらに簡単にしたものですけど。材料は、かぶ・ベーコン・固形コンソメスープの素・醤油・塩・水、本当は玉ねぎも(家になかった)。
小鍋でベーコンを炒めた後、かぶ・水(3カップ位?)・コンソメを入れて、中火で10分程度煮る、適当なところで醤油を少し加え、塩も少々。あっ、最後にかぶの葉を入れました。
あらまぁ、結構美味。って、コンソメスープの素が美味しいんでしょう。料理嫌いの私にとって、手作りは最高級のご馳走なのでございます。
心癒されました。
ついでに、室内ふとん干しなんかもしたりしまして・・効果ある?
久々に丁寧な生活気分を味わっておりますと、庭のハナミズキの枝に鳥が・・・
なんという名前?すずめじゃないですよね・・。むっくり感がかわいい。
また心癒されました。
そして、夕方から芝居の練習。昨日は、やっと台本手持の立ち練習に入りました。
もう公演まで一ヶ月を切っているのに間に合うのでしょうか。しかも、子役がまだ決まっておりません。いやはや。
私以外のメンバーは、台本が書けて他劇団に客演もする団長、地元で活躍するソプラノ歌手兼大学講師の女性、病院で派遣で働きながらワークショップで企画講師をするアラサ―、教育機関で事務をしながら朗読やイベント司会もするアラサ―、朗読講師や演劇活動をされる女性、など皆さん、何らかの役目がおありでいいなぁと思います。
私は、会社員を30年続けたというだけで、早期退職してその肩書きを手放してみると何者にもなれていないのです。自宅に引きこもっていればその現実から目をそらしていられますけど、こうして世間と交流すると、ふと自分の所在なさをひしひしと感じるのでございます。あっ、後悔とかではございません、現実を受け止め、それでも、微笑んでいられることに感謝しているのです。今から色々頑張っても、もう遅いよなぁー、と思いつつも人生何が起こるかわからない・・と団長から読めと言われた本にもございました、とさ。
なんと、団長から、またもや“かぶ”の配給。超簡単レシピを検索するとしましょうか。
日々感謝です。
Eテレ「ミュージック・ポートレイト 松本隆×斉藤由貴 第1夜」を観て。
こんにちわ、SUMIKICHIです。
対談者によってごくごくたまに録画視聴しているEテレ「ミュージック・ポートレイト」。今回は、作詞家・松本隆さんと女優・斉藤由貴さん。
斉藤さんは、現在NHKドラマ「お母さん、娘をやめていいですか?」でひやっとする母親役を演じてらっしゃいますよね。ですが、本日は、私の学生時代にドンピシャのヒット曲を手がけられた作詞家・松本隆さんにスポットをあてて、ざっくり備忘録。
作詞家・松本隆さん、67歳。
1949年、東京都青山生まれ。父親は大蔵省官僚、裕福な家庭の長男でお坊ちゃまとして育つ。慶応義塾中等部入学、大人びた少年はクラシックや映画音楽、アメリカンポップスに惹かれる。中でもお気に入りはキャロル・キング。1曲目「WILL YOU LOVE ME TOMORROW」The Shirelles。大人の恋を描いた歌詞に衝撃をうける。
60年代初期のものはいい歌が多くて好き、キャロル・キングの作った曲は普遍的、今聴いても古くない、“will you love me tomorrow”・・初めて寝た相手に“あしたも愛してくれるの?”って、あしたも、あさっても、何十年後も?ってことでちょっと深いでしょ、と松本さんは言う。
斉藤さん、中学生でそんなこと考えるのって早くない?とたずねると、僕はジャン・コクトーを読んでましたし、小学生ではボードレールも、と平然とお答え。なんか、嫌みな感じがするぅー、と斉藤さんつっこむ。
1966年、ビートルズ来日。衝撃をうけロックに目覚める。高校に進学して、クラスメイトとバンドを結成しドラマーとして腕を磨く青春時代が始まる。コンテストに出場したりしてそこそこ上手くなる。やがて受験のためベースが脱退。後にYMOとして活躍する細野晴臣さんと出会い、本気で音楽の道を志し大学を中退。勝負をかけてエイプリルフールを結成。
その頃アメリカでは、ベトナム反戦運動の盛り上がりをうけ、愛と平和を訴える新しいロックが台頭、全米の若者たちを熱狂させていた。こうした文化は“カウンターカルチャー”と呼ばれ世界中に影響をあたえる。
それはエイプリルフールにも届き、頻繁に演奏したのはカルチャー文化を象徴するバンド・ドアーズの曲、2曲目「THE END」The Doors。
エイプリルフールはアングラとサブカルの聖地・新宿でコアな音楽ファンの注目を集める。そして、念願のデビュー、オリジナルアルバムの録音をしたが、すぐにバンド内で対立。英語と日本語、どちらでロックを表現するか、松本さんは日本語にこだわった。発売と同時に解散。わずか半年のこと。
世界で勝負したいなら英語だという意見もあったが、頭の中でいちいち翻訳しているとそれだけスピードが落ちる、ロックビートなんて100分の1秒とか2秒とかの差でグルーヴがあるとかないとかなんだから、生まれた時から頭の中で鳴ってる音(日本語)で歌ったほうがロックっぽい、と松本さんは語る。
その後、松本さんと細野さんは新たなバンドで勝負をかける。その名もはっぴいえんど、大瀧泳一さんと鈴木茂さんが加入。松本さんは日本語の作詞に挑む。それは、大瀧の家を初めて訪れたときに目にした情景を描いた曲で始まる。3曲目「12月の雨の日」はっぴいえんど。
そのとき、雨が降っていてタクシーを待っている間に風景を見て書いた。しばらくして、大瀧さんが曲をつけた。はっぴいえんどの一曲目だ。
21歳。ファーストアルバムをリリース。日本の音楽界に一石を投じる。それまでの流行歌とは一線を画し、目にした情景や出来事を映像的に描いた。特に心を砕いたのは、ロックのサウンドに日本語をのせる前人未到のこと。当時のロックは英語が常識で日本語ロックを拒絶する人も多く、松本さんは雑誌でも批判を浴び、論争にまで発展。だが、日本語ロックは俺が作ると闘う決意をした。作詞に文学的表現を持ち込んで高みを目指す。
71年、セカンドアルバム「風街ロマン」を発表。都会に暮らす青年の心象風景を繊細な映像表現で表現した。
それまでの流行歌にはなかった文学的でお洒落なことば選びが音楽会に衝撃を与える。こうして、はっぴいえんどは日本のロック界のトップバンドと目されるようになった。その後、メンバーが音楽界を代表するミュージシャンになるが、それはまだ後の話。
日本語のロックという新境地を開拓したはっぴいえんど、しかし、強烈な個性をもったメンバーは音楽性の違いでぶつかる。結成3年、3枚のアルバムと伝説だけ残して解散。松本さんは行き場を失い、第一子の誕生を前に生活は追いつめられた。そんな松本さんに残された道は、作詞。バンド時代のツテを頼り、アイドルソングの歌詞コンペに応募。解散から一年かけてようやくつかんだ初めてのヒット曲が4曲目「ポケットいっぱいの秘密」アグネス・チャン。
サブカルから歌謡曲へ。かつての仲間やファンからは裏切りと言われる。孤独な挑戦の始まり。
みんな面食らって友達は離れて行ってとても孤独、まぁ、自分で選んだ道、こんなことしてていいのかって葛藤はあったけど、証明するしかない、と松本さんは言う。
歌謡界の常識を変えてやろうと模索する。愛や恋をストレートに歌うのではなく、繊細な心象風景を映像的に描く、文学的なことば選び(何度も出てくるフレーズ)を心がけた。
26歳のときに作った曲、遠距離恋愛をそれぞれの目線から交互に描いた曲が高く評価された。
松本さんの書いた曲、それは歌手の個性を直感的に見抜き、それを最大限際立たせるものだった。様々なスターが松本さんの詞によって磨きあげられていく。松田聖子さんに初めて提供した曲。
そのほか
前作の「赤いスイートピー」の内気な少女から少し大人の女性に。様々な女性像を共に表現した松田聖子の挑戦は、数々のヒット曲を生んだ。
20代の後半にして歌謡界のヒットメーカーとなった松本さん。創作の源は、ロックバンド時代に得た豊富な引き出しにあった。
最初からメインストリームではなくサブカルから入って、けっこうな情報量を仕入れて自分の研鑽ができた、内容も薄っぺらいものじゃないもので1位を取りたいと・・。
31歳。歌謡界での挑戦はついに大輪の花を咲かせる。日本の音楽史に残る記録誕生、歌番組「ザ・ベストテン」で連続12週1位、80年代を代表する名曲、5曲目「ルビーの指環」寺尾聰。
寺尾さんは役者になる前はミュージシャンだった、中学生のころバンド番組で観てて、この人カッコイイなぁーって思ってた。その憧れてた人から「詞を書いて」と言われたとき、これもひとつの巡り合せかなと思って・・“くもり硝子の向うは風の街”、‘風街’って僕の大事なことば、それをプレゼントしてるの、相手(寺尾さん)は知らないわね、はははっ、と寺尾さんは嬉しそうに話す。
斉藤さんは、松本さんの詞を気持ちのいい都会感があると言う。その斉藤さんに提供した曲がこのデビュー曲、斉藤さんの4曲目「卒業」。斉藤さんのその後を決定づけた。
松本さんは斉藤さんを見て、まわりに流されない芯の強さとはかない魅力を見抜いた。描いたのは“卒業式で泣かない女の子”、この詞が、内気だった斉藤さんの個性を輝きに変えた。
さらに、松本さんは、
僕は、卒業式で泣いてる人いるけど、これって本当に泣いてるの?って思ってた。(略)斉藤さんの名前も顔も知らないときに、卒業の曲を依頼されて作ってて・・壁に貼ってあるポスター(斉藤さんだとは知らない)を見て、斉藤由貴ってこんな感じなんだろうな、くちびる噛んで泣かないと可愛いだろうなと思ってた、直感ってあるんだよね、と当時を振り返る。・・・ 以上、第一夜をざっくり。
私、現在53歳。冒頭でも書きましたが、青春ドンピシャの曲ばかり。幼いながらも詞の世界観に浸ってましたね。メロディや歌声ももちろん良い。友達と歌ったり、詞についてあーだこーだと喋ったり。「木綿のハンカチーフ」なんて、太田裕美さんの声と相まって・・今でも遠距離っていうとこの曲が浮かびます。松田聖子さんの曲も松本隆って人がよく書いてるなとか。「ルビーの指輪」もなんだかお洒落で歌ってましたし、今でもカラオケとかで歌われてますよね。アグネスチャンもよくマネしてました。卒業といえば「卒業」の泣かない女の子に共感!サビのメロディと斉藤さんの声も切なくて、みんなで歌ってましたね。昔の曲が覚えやすいのは、ストーリーがあるからなのかな、それとも単に若くて記憶力があっただけかな。そんな懐かしさてんこ盛りの中で、松本隆さんの辿った道を知ってより深く曲が味わえる気がします。最近たまーに、はっぴいえんどの曲が一部流れますよね、なんだろうコレ、不思議な世界って思ってました。そもそもの松本さんのルーツはジャン・コクトーやボードレールなのかしら?
若い方々にはご理解頂けないかも、すでに懐メロの世界かな。それにしても私、知らないコト多過ぎ、自分のベースもあるような・・ないような・・。
日々感謝です。
本日は、引きこもって読書を。合間に窓からオタク。
こんにちわ、SUMIKICHIです。
本日は、一歩も外出せず引きこもりの日でございました。なぜならば、劇団団長から芝居の関連本を早急に読んでおくようにとのお達しがございまして、午後から身動きせず(なわけないですけど)読書に耽っておりました。
正直、私の役柄には何の関連もございませんが、まぁ、全体を通して芝居の雰囲気を掴めということのよう。
だいたいいつもTVを付けっ放しにしているのですが、本日は団長から借りたCDをBGMに。
清く正しく美しい曲、歌声に酔いしれますが、時折ソプラノが大音量になりびっくりするので、小さめの音量で。うーん・・なかなかページが進みませんので止めましたけど。私の読書タイムには不向きのようでございます。
話を戻しまして、この「お遍路ガール」、あっという間に読めました。読み始めには「お遍路さん、やってみようかなぁ」とお気楽に思いましたが、小説とはいえ作者の体験がベースにあるようで、シュミレーションしながら読んでますと根性無しの私には無理だなと即撤退いたしました。
が、この春、四国の下灘駅とか足摺岬、四万十川あたりをぐるっとドライブ旅行したいなとつらつら考えてはいますので、多少参考にはなりました。
そうそう、"孤独"って、そんなに悪いもの、寂しいもの、哀しいもの、恥ずかしいものなのでしょうか。私は、ほぼ孤独死間違いないと思いますが、ある意味“孤独”に生かせて貰えて有難いなと思ったりもします。ふと、本の中で“孤独”から抜け出したいためにお遍路に・・って解釈してしまう(私見です)あたりでは、ならば、私はお遍路に行く必要はないのかもしれない、と生意気なことを思うわけです。
どうでも良い話。
冬の間は、二階の部屋の方が狭く暖房も効きますのでほぼそこで過ごすのですが、一日中ソファに座っていると、窓から見える外の景色の移り変わりが視界に入り・・
遠くから迫ってくる列車の音まで聞こえますので、なんと、二階から通り過ぎる列車を撮ってしまうのです。コンパクトデジカメのお任せモード、ズームインにも限界ありで、何度撮っても変わり映えしませんのに通るたびに。ほとんどビョーキ。近所の人から怪しがられてるやもしれませぬ。
当たり前のことなんですが、こちらは田舎ですので、単線で便数は少ないのですが、出勤時間と退社時間あたりは3両、利用者が減る昼帯は1両、基本的に2両、色は朱赤、たまにシルバーだということに気づきました。1両を見ると、何だか可愛くて仕方ありません。暗くなると、なんなんだかわからない写真になってしまいます。コンパクトデジカメの限界です。といいますか、私が調整出来ないからです。
早朝
出勤時間帯?3両
午前中
シルバー登場
利用者少ない時間帯?可愛い一両
午後前半晴れてきた
夕方近く
日が落ちてから よくわからない
午後7時過ぎ
うーん・・暇なおば様だよねぇって話でございました。
日々感謝です。
Eテレ「SWITCHインタビュー達人たち 遊川和彦×黒木瞳」を観て。やはり“根っこ”は必要・・。
こんにちわ、SUMIKICHIです。
たまに観るEテレ「SWITCHインタビュー達人たち」。今回は、女優・黒木瞳さんと脚本家・遊川和彦さん。去年から今年にかけ映画監督デビューを果たしたという共通点を持つお二人。
最近、映画「恋妻家宮本」の宣伝で遊川和彦さんをお見かけしますが、実は、この方があの番組の脚本を書いてらっしゃったのね、とあまり存じ上げてなかったのです。衝撃的で今でも好きな「女王の教室」をはじめ「家政婦のミタ」「曲げられない女」「魔女の条件」、そして原作もので大ヒットした「GTO」など、リアルタイムで観ていたその頃は、あまり脚本家を意識しておりませんでしたので。
番組を観て、この脚本家もそうだったのね、と思った点がありましたので、ざっくり綴っておきましょ。
遊川和彦さん、61歳。
高校生のとき、学際で芝居の脚本を書き好評を得たのをきっかけにドラマ制作の仕事に興味を持つ。やがて、制作会社に入りADの仕事をこなし、早く上に行こうと思っていた。もともとは演出家や監督志望。このスタジオ現場で王様になるにはどうしたらよいか、一人で考えた。ふと、まわりを見渡し気づいた。モニターの中の芝居を見ていて、その芝居をどうするかを必死で考えればいい、他に考えている奴はいないと。スケジュールや段取りを考える奴はいるけど、「俺が考えた(例えば)黒木瞳の芝居とは違う」と考える人はいない、それを自分がやればいいと。
そうするとディレクターを無視して演出をし出す、とか、勝手に脚本を直すようになる。生意気で、社長と衝突し辞めてやる!と出て行った。止める仲間はひとりもいなかった。このとき31歳、脚本家の道を歩き始めた。
“当時、茫然と赤坂の街を歩いたことはよく覚えている。収入のために仕事しているよりは、自分がしたいことをして何とか生きる方がいい、お金は大変かもしれないけどお金では買えない幸せが絶対ある。後悔してない、愛おしく思える”
その後、AD時代に担当していた番組「うちの子にかぎって・・」SP版の脚本家に抜擢される。初稿は面白くないってスタッフに言われて、手直ししたら劇的に面白くなった。「脚本家は実は、直しが上手い奴が大事、柔軟に直せるんだな、俺はって思った。連ドラやるのも直しが苦じゃないからやるのかな」と遊川さんは言う。
脚本家となって11年、初めて原作のあるドラマ「GTO」の脚本を書くことに。これが大きな転機となる。平均視聴率28%を超える大ヒット。しかし、その裏で大きな壁にぶつかっていた。
“やらないつもりだったけど、原作読んだら面白かったし、原作があるから楽だなって思って書いたら「原作のままですね」と言われた。あっ、そうなんだ、ドラマ的に広げていかなきゃいけないんだ、と思ったときに・・・俺はこの主人公のことをよくわかっていないことに気づいた。もう書けないと思った。一話撮ってるときに、二話が出来てない状態。連ドラとしては壊滅的。今までストーリーテラーとしての脚本を書いてきた。脚本はキャラクターを掘り下げないと物語が作れない、主人公の中に入って自分で考えないといけない。そうした時に書けるんですね”
ここで黒木さんが鋭い問いかけを。面白くないって言ってくれたプロデューサーが良かったんですね、と。人って否定された時にどうするかって話ですよね、と遊川さんも頷く。
“それからは、トラブル地獄に突っ込んでいくのが苦にならなくなった。お互い「こっちが面白いと思う」っていう対立で、ぶつかってケミストリー(化学反応)で新しいものが生まれればいい。収拾つかなくなったらプロデューサーに決めてもらう”
“そんなに平和な現場ってない。ウソっぽいし何も残らない。スケジュール通り終わって、役者さんが機嫌よく帰っていく、あー良かった、だけ。だけど、ああして欲しかったというのが残るだけ。その方がよっぽど問題。新しいものを生み出す共同作業が出来た時の喜び・スクラム感が一番大事”
黒木さんも、ウソつきたくないからホントのこと言っちゃう、誤解される時もあるけど、と言う。
遊川さんは、脚本家の立場でも頻繁に撮影現場に訪れる。面白いドラマを作る難しさを誰よりも知るからこそ、トラブルを気にせず厳しく注文をつける。
“いい芝居を見るのも幸せだけど、いい芝居をしようともがいてる人を見るのもいい。ひたむきにやっている姿は好き、そういう人とは失敗したっていい、またやろうと思う”
黒木さんが言うには、いい芝居をしようと思っていい芝居はできない、その時の集中力や想像力による、いい芝居をしようと思ったら理性的な芝居になるらしい。
そんなお二人の共通点がもうひとつ、‘芝居が好き’。ここでまた誤解を招きそうな現場の裏話。
“ ‘芝居好きじゃない人’が現場に結構いることが驚き。‘ドラマが好きな人’か‘ドラマを作ってる自分が好きな人’。7割がそう。こいつら全部崖から突き落としてやりたい、邪魔なんですよ”
“SNSで酷評されることについては、わかってもらえない寂しさは感じるけど、現実を受け止めないとこっちの負けなので、批判的な人たちにも、次は納得できるものを書こうと。もと少年隊の東山さんも同様なこと言ってましたけど、叩かれれば叩かれるほどファイトが湧くって”
そんな遊川さんのストレス解消法は、読書や映画鑑賞。驚きなのは、カラオケで嵐の曲を歌う(踊る?)こと。
今後の夢は、‘恋妻家’になること(映画の宣伝じゃん)。ちなみに、‘愛妻家’は、俺は愛してやってるぜみたいな自慢みたいな感じ。そうではなくて、日常において「あっ、今、この奥さん好きだな(または、好きになったな)」みたいな瞬間の積み重ねが大切だということから‘恋妻家’という造語が映画のタイトルに。
私の記憶に残る好きなドラマを書いていた方なのですが、思い描いていた人物像とは真逆な感じでございます。どちらかというと、多くを語らず神秘的な男性を想像(私の願望?)してましたのに、こんなパワフルな落ち着きのない(失礼!)方だったとは。
制作現場のお話を聞いていると、もと職場での苦い思い出が蘇りました。スタッフとの衝突を出来るだけ避けようと神経をすり減らしていた若かりし頃の日々。本当は遊川さんのように果敢に自分が信じる面白いコトを主張できるタイプ(私には無理かな)だったら、もっと違うモノが出来ていたのかなぁと反省・・って今更ですので、懐かしむだけにしておきましょう。それに、よくよく思い出すと、自分では一歩も百歩も引いてたつもりでも、たまーにスタッフの口から「また○○さん(私のこと)ワールドだよ」ってお決まりの単語がため息まじりに吐き出されてましたね。ふふっ、おもしろーい。
そうそう、最近観た番組で、脚本家の倉本さんが‘登場人物の履歴書がドラマの根っこ’だと語っていらっしゃったので、当たり前のことかもしれませんが、やっぱりそうなんでしょうね。
蛇足ですが、黒木瞳さんは強い女性ですね、周囲にどう思われようとかまわない、どんな人間か決めつけられたくない、そんな発言にちょっぴり驚きでございました。
日々感謝です。
映画「沈黙-サイレンス-」を観て。映像美が逆に刺さる・・。
こんにちわ、SUMIKICHIです。
先日、映画「沈黙-サイレンス-」を観ました。
いろんな情報媒体の宣伝で見かけ、遠藤周作さんの原作を映画なのね、気にはなりますね、と思ってはいいたものの、まあ、いつかね、と忘れていましたら、劇団団長に、観る?と聞かれてから、おぉーっと思い出し、時間はたんまりありますのでいつものように予習もせず映画館に。ホント、予習せずに。
遠藤周作さん原作の映画は「海と毒薬」を昔観たくらいで、「沈黙」は本も読んでおりません。なのに気になっていたというのは、「海と毒薬」の衝撃的な記憶が蘇っていたのやもしれませぬ。
こちらの地区では上演回数が夕方から1回という少なさ。私が出かけたのは平日。観客はいないでしょうねと思いきや、10人位いらっしゃり、ほとんどおひとり様、若い女性も。だからどうしたという話ですけど。
映画が始まりまして・・・あらすじは割愛させて頂きますが、視聴中私の脳内は混乱、いえ、散漫・・上手く表現できませんね、とにかくとっちらかっておりました。
上手くまとめて綴った方が良いとは思うのですが、散乱状態をそのまま羅列しておこうと思います。ふざけていよのではございませんのでお許し下さい。
どうして、こんな拷問の方法を思いつくのか、人間が人間に行えるのか。
日本の風景(集落)に どうしてこう外国の俳優が似合うのか。
「沈黙」とはそういうことだったのか。説明できないけど。
暗くても澄んだグレイッシュな映像が好きだなぁ。
なぜイッセー尾形なのか、ハエなのか。そこまで集落の人たちを・・。
日本は沼地なのか。これが島国ということなのか。関係ないか。
信仰ゆえに、苦しまなければならないのか。
踏絵とはそもそも何なのか。
そもそも私はなぜ観ようと思った?
外国人俳優と日本人俳優が並ぶと、どうしても日本人の表情の硬さがすごくよくわかる。それはそれで味だとは思うけど、筋肉の堅さが伝わる。演出もあるんでしょうけど。外国人から見るとこうなるのかな。
外国人監督の映画に出る日本人俳優は、ドラマなどで観る時とは違って別人のよう。当たり前か。
出演者のみなさん、撮影にむけての準備期間そして撮影期間中の現場での在り方、心中など、勝手にお察しいたします。
獣のように生き、獣のように死んでいく。目覚めてから泥にまみれて働き、貧しい食べ物を食べ。極貧の日々の中で信仰する人たちの目は、パードレをキラキラとした目で見つめる。私はどうしたらいい?
信じることで救われる。死んだら働かなくていい天国に行けると本気で信じている。
どうして、神のために死ねる?生きていることが苦しいから?
私は、画面を観ながら、何をしたらいいのか、何をどう思えばいいのかわからなくなる。
しばらくしたら、何も観なかったように、好きなコトをする暮らしをするのだ。私は誰に懺悔をすればいい?無宗教ですけど。
自分が司祭者や信仰者だったらどうするだろう?もちろん踏むだろう、でもそれは日々好きなものを食べ、暖かい所で寝て、現実世界が地獄のような場所ではないから?信仰って、宗教って。
自分の心は誰のものでもない、人は騙せても自分を騙すことはできない、自分を誤魔化していることを知りながら生き続けてるのはとてもつらい、実は人にどう思われるかを気にして生きるよりつらいのかも。そうして生きることは、ある意味、懺悔?信仰?
やはり、目で確認でき、感触で確かめられるカタチあるものを手にしていなければならなのものなんでしょうね・・人間って。言葉で語るより、語ることのないモノが多くを語る、しかしそれは、自分の心が語る。最後のシーンを見て強く思う。
ざっくり以上のような散乱状態でございました。全て私見でございます。そもそもの歴史の知識がないのに何も語れませんね。ただ、ただ、酷い・・なぜこんなことに・・いい歳してちょっぴり自己嫌悪。何に対して反省してよいのかわからず、救いを求めて・・買ってしまいました。節約のため本は図書館で借りる!とか言ってますのに。
表紙の写真(絵?)、暗闇の中に一筋の光がうっすら放たれているのを見て、ああ、ラストとつながっているのかなぁ・・としんみりいたしました。いえ、真理が雲で覆われていく、という見方もできますね。私には、逆で、覆っていた雲がどいていく、という風に見えました。中身はまだ途中までしか読んでいませんが、また映画の映像がよぎり、ちょっぴりつらいですね。
私の歌うたい活動におつき合い頂いてる先輩男子の方は、クリスチャンでらっしゃり、映画を観てわからなくなりましたとお伝えすると後日いろんな考え方を教えて下さるみたいで楽しみにしております。おっ、それまでに読破しておきたいと思っております。
日々感謝です。
Eテレ「100分de名著 ガンディー『獄中からの手紙』」第2回〜人間は欲望に打ち勝てるのか〜を観て。自己浄化・・。
こんにちわ、SUMIKICHIです。
最近よく観る Eテレ「100分de名著」。今月は、暴力ではなく精神の力でインドを独立に導いた指導者マハトマ・ガンディー。諸説ありのようですが。
第2回は「獄中からの手紙」にも描かれたガンディーの生き方を通して、「人間は欲望とどう向き合っていけばよいか」を見つめていく、という内容。
では、ざっくり備忘録。
若かりし頃のガンディーは、どちらかというと欲望まみれだった。
1869年、ガンディーはインドの裕福な商人の家の末っ子として生まれ、不自由なく育ち、高等学校に入学した頃、友人からこんな事を言われる。
僕らは肉を食べない、だから弱いんだ、イギリス人が僕らを支配できるのは肉を食べて強いからだ、実は僕は肉を食べてるからこんなに頑丈なんだ、と。
友人の体格の良さに憧れを抱いていたガンディーはヤギの肉を食べてしまう。その夜、ヤギが自分のお腹の中でメエメエと鳴いている夢にうなされ飛び起きるほどのショックをうける。しかし、肉のうまさを味わったガンディーはその後何度も友人に誘われヤギの肉を食べた。さらに、大人がタバコの煙で輪を作っているのを見て、真似てみたくなり、召使のへそくりをくすねてまでタバコを買うようになる。18歳になって、イギリス留学中にある老夫人と親しくなり、毎週日曜の会食に招待された。そのうち、老婦人はよかれと思って、若い女性を引き合わせ二人きりにするようになった。しかし、ガンディーはインドの風習によって結婚をすませ、一児の父となっていた。そのことをなかなか言い出せずに独身のように振る舞っていた。
結局、妻がいることを告白し、大事には至らなかったようだが、スタジオでは、若い頃から聖者というわけでなく、欲望まみれで真逆な人生を歩んだがゆえにいろんな問題に気づいていくという人生を辿った人、親近感が持ててホッとすると話す。
そんなガンディにとってある転機が訪れる。イギリスで弁護士資格をとってインド戻ったが、南アフリカから弁護士の仕事依頼が来る。当時南アフリカには、出稼ぎのインド人労働者がたくさんいてインド人コミュニティが出来ていたが、弁護士が少なかった。
よし、ビジネスチャンスだ!と野心を抱いて南アフリカへ。
心機一転、弁護士として新たな土地・南アフリカへ降り立った。目的地に向かうため、寝台列車の一等席に乗車していたとき、突然、白人の駅員から、貨物車へ移れと命令される。一等席チケットを持っていると何度も主張したが、聞き入れられず、ついには荷物ごと列車の外に放り出されてしまう。
南アフリカでは、イギリスの植民地支配によって白人が優遇され根深い人種差別があった。インド人は有色人種として差別の対象だった。
冬の真夜中、駅で凍える思いをしながら一夜を明かした。自分が受けた侮辱に対して、どう対処するかを深く考える。
私の受けた仕打ちは、問題の一層に過ぎない。人種偏見という根深い病気の症状が表れただけだ。出来ることなら私は、この病気を根絶やしにすべきだと。
翌朝、早速鉄道会社に抗議の電報を打った。ようやく辿り着いた先で出迎えてくれたインド人たちから、こうした差別は日常的にあることだと聞かされる。彼らにとって、差別に対しては泣き寝入りするのが当たり前だった。そこで、差別撤廃のために行動して行った。
さらにスタジオでの解説によると、イギリスで弁護士資格をとり、これでイギリス人と同等の地位を得たと思っていたガンディーは、自分が差別される側にいるんだと気づいた、ここで政治というものに直面した、ここから政治家としての歩みが始まったのだとのこと。
さらに、世界を変えるためには政治的な支配を除去するだけではダメだ、自分が変わらないといけない、私たちが支配されているものは単なるイギリスなのか、いや違う、イギリスがいなくなっても何も問題は解決しない、近代の文明とか欲望によって支配されているのではないのか、ならば、自分の中にある欲望に矛先を向けていかないといけないのではないか、自分自身に対する問いになっていく・・・。
では、〜欲望との向き合い方〜について。政治的問題を解決するために内なる問題を制限することに注目した。まずは、
【ガンディーの欲望との向き合い方 結婚・性欲】
一人だけではなく万人を愛する?ちょっと、極端?
【ガンディーの欲望との向き合い方 食欲】
【ガンディーの欲望との向き合い方 所有欲】
ガンディーの制限については
それぞれについて厳しく批判している。性欲について、既婚者はどうするの?妻を妹のように思え、欲望の対象にしてはいけない。ガンディー自身も妻との性的交わりを断っていく。食欲については、味付けをしてはいけない。塩や砂糖の魔力は凄いもの。
さらに、すでに持っている富や人間関係についても次のように語りかける。
ガンディーが重視したのは‘物事の捉え方’を変えることだった。
人間の非常に大きな欲望は「自分があること」。現代では、自己PRが必要だと言われたりするが、ガンディーは、それは幻想の自分に執着しているという。私たちは神のものである、神の器である、それによっていろんな可能性が開かれているともいう。
その欲望に立ち向かうためには、「誓う」という行為が重要だという。
しっかりとした決意表明をしなさいという。ここにガンディーの思想の構造が表れている。ここで、別の時代の別の人のことを取り上げる。18世紀の哲学者・イマヌエル・カントが、よく似たことを考えた。
理念には二つあり、お互いがあってこそ上手くいく。カントで言うと、平和を例としたら「統整的理念」は‘永久平和’、そのための「構成的理念」は‘軍縮’など。
伊集院さんは、大きな目標‘標準体形になる’を掲げないと、夜のごはん大盛りをやめられない、みたいなことですねとわかりやすく話す。
文明の発展って拡大することだと思っているけど、ガンディーはそれが本当に発展なのか、本当に大切なことが他にあるんじゃないかと考えた。
スタジオでは、「慎重かつ果敢に食欲を削減していく」と伊集院さんは言い、「できるだけって言葉を使わないようにします」とアナは言う・・・次回に続く。
寝台車一等席から貨物列車へ移れと言われ、挙句の果てに冬の寒い夜、外に放り出されて・・・その時の屈辱が自己内省に向かう・・そして禁欲へ。時間をかけ、かなりの深堀を要するプロセスだったんでしょうね。うーん、それだけ、衝撃が大きかったのかなと思います。それにしても、若い頃は欲望まみれで、弁護士で、なんて知りませんでした。経歴など何も知らず、受験用知識程度(にしても浅過ぎ)にさらーっと覚えてたんだなぁと反省。全てにおいてそんな感じでございます。もったいないことです。
日々感謝です。