今日も、生涯の一日なり

自分軸で生きると決め早期退職した50代独女のつぶやき

Eテレ「100分de名著 ―野火― 第3回〜人間を最後に支えるもの〜」を観て。武器は思考。

こんにちわ、SUMIKICHIです。
すっかりレギュラー視聴するようになったEテレ「100分de名著」。今月は大岡昇平の「野火」。大岡昇平の代表作「野火」は、太平洋戦争末期、絶望的な状況に置かれた一兵士が直面した戦争の現実と、孤独の中で揺れ動く心理を克明に描きだした作品。戦後文学の最高傑作とも称される「野火」は、数多くの作家や研究者が今も言及し続け、二度にわたる映画化を果たすなど、現代の私たちにも「戦争とは何か」を問い続けている。番組では、作家・島田雅彦さんを講師に迎え、「野火」を現代の視点から読み解く。第3回は、田村の戦場での最後の行為から、人間にとって「倫理とは何か」「宗教とは何か」といった根源的なテーマを考えていくという内容。
お恥ずかしい話ですが、私、読んでいませんので、ざっくり備忘録しときましょ。

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今回は、本当に食べるものがない極限状態の中、発表当時からスキャンダラスに扱われた人肉食の問題に踏み込むことになる。その前に、田村の状況のまとめ。

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パロンポンで、ある兵士が米兵に白旗をあげて意思表示をするが撃たれて死ぬ。進退極まりない状況。そんな中、実は、田村はあることを感じる・・

 

敗残兵たちは決死の行動を行う。ぬかるむ道路を進みながら、田村は自らの死を覚悟した。その中で、‘誰かに見られている’という不思議な感覚を覚える。それを再び感じたのは、彼の飢餓が限界に近づいた日だった。

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スタジオの解説・・
田村は二度ね ‘誰かに見られている’ という感覚に捉われる。一度目、なぜかそれを意識した瞬間に身体が軽くなる、二度目は屍体を見たとき。

では、‘誰か’って誰なのか? 例えば、‘神だ!’という超越的なものを意識してしまうのは、やはり、こういう時であろうと思われる。そして、神を見てしまうのは、自分の心の中にやましいことがあるとき、罪の意識があるとき、それを誰かに見透かされているのではないか、という感覚から思いを抱くこともある。“自分の中に織り込まれた「他者」” ということもある。

かなり追いつめられている局面において、若干自分から意識がズレて、自分の中にある別の何か、他者とか超越的なものがひゅっと入り込んで、自分が自分を動かしている意識とは違う状態だと思う。田村自身、ここまで、女性を射殺したり、多くの屍体を見ながら進んできているので、それが ‘誰かに見られている’ 感覚につながるのかもしれない。逆に、この思いがあるうちは倫理が保たれている、それがすべて打ち消されてしまったら誰に見られようがおかまいなしってことになる。獣になってしまう。

そして、田村はいよいよ切羽詰まっていく・・

 

田村は丘の上の木にもたれている、ひとりの男を見つける。

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歳は40を超えているらしい。雨と日で変色していたが、彼の服は将校の服であった。ただ、剣も拳銃も持っていなかった。

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田村は、もう長くはもたないであろうと、この男が死ぬのを待っていた。

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田村は、死んだ男の屍体を、人目のつかない所に引きずって行った。その屍体わ前に考える。

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私は右手で剣を抜いた。私は誰も見てはいないことをもう一度確かめた。

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スタジオの解説・・
キリスト教において、“聖体拝領”という、これが私の肉であるとしてパンを、これが私の血であるとしてワインを、信者に分ける、という儀式を想像させる。一種の自己犠牲として。田村も、食べていいと言われ食べようとするが・・

   「汝の右手のなすことを 左手をして知らしむる勿れ」
                    マタイ福音書第6章3節

もともとの意味は、人に何か施しをするときは、俺は施しをしているんだ、えらいんだという意識を持たずに、つまり、施しは右手がやることを左手がわからないようにこっそりやりなさい、ということ。ここでは本来とは違うカタチで表現されている。

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伊集院さんは、怖いと思った、その本来の意味を聞いたら、またやりそうになる、今回はやめとこうって受け取れるんですけど、と言う。

もう少し深読みすると、施しをするってことが、本当に善意の発露であることが理想であって、逆に、それを左手が知ると、作為とか打算がからむ、ということなのかなと島田さんは答える。さらに、飢えて死ぬという状況の中では、普通に仲間の肉も食べるかもしれない、動物のように。人間も動物の産物ではあるけれども、どこかで、動物とは違った行動、迷いが生じる。自分の本能通りやろうとするけれども、どこかで、逡巡させる何かが働く。その逡巡はなぜだろう?と考えたりする。ある意味、狂ったところがある。逆に、もしかすると人らしさがある。ここは宗教的な儀式のように描かれてきたと思いきや、自分の中で働いた行動というものに、宗教のコンテクトとは違う定義を与えたいかのように自己分析をやめない、と話す。

このあと、田村はさらに不思議な体験をする・・

田村はひとり、野を彷徨う。

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田村は自然の中で神を見るがごとき体験をする。

 

スタジオの解説・・
死んでる人間を食べるなんてことより、生きてる草花を食べる方がわっぽどおかしい。独自に田村が獲得した宗教観のようなもの。

伊集院さんは、恐ろしいのは、ちょっと説得力がある、大岡氏は、こういうリアルな局面を体験されたんじゃないですか?と思うと話す。

それは大きな議論を呼びましたねと島田さんは言う。「野火」の前に書かれた「俘虜記」(自身の捕虜体験を記した連作小説)という作品の中で、偶然出くわした若い米兵を殺すか、殺さないかの葛藤が出てくる。ここと対応している。殺される前に殺すという基本の行動原理が揺らいで、別に殺さなくてもいいのではないかという風になる、さらには、避けられるならば殺さない方が良い、最終的には銃を構えるけれど引き金は引かない、米兵は森の中へ。そして、自分は殺さなかったのだから、米兵の母親に感謝されてもいいはずと思ったりする、と説明。

極限状況における人間というのは、大きな葛藤を突きつけられる。殺すか殺さないか、食うか食わないか、など大問題を考えざるをえない、その時、人間本来の姿になってしまう。田村は、そうした体験を全部なぞってきて、そこで、彼なりの強靭な思考力を駆使して、時には合理的に、屁理屈もあり、何らかの結論を出し、それがひとつの悟りになって重なっていく。最後まで‘考えること’をやめていない。‘考えること’と闘うことをやめていない。米兵と戦う戦争っていうのが、自分との戦争。武器は思考、銃ではない、と島田さんは締めくくった。            (完)

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  “人肉食”自体の問題よりも、キリスト教 “ 聖体拝領  ”「汝の右手のなすことを 左手をして知らしむる勿れ」の言葉が印象に残りました。それと、極限状況の中でも “ 考えること ” と闘うことをやめないこと(ややこしいですね)、武器は思考、のあたり。戦争反対!という感想が正しいのかもしれませんが。

戦争体験がなくて、田村のような極限状況に追い込まれたことがない私、えらそうなことはいえませんが、そういえば、両親が健在だった頃やそんなに重大な案件ではなかったりしたら、よく考えないですぐ放り出していたけれど、誰も頼ることができない境遇になったら、自分しかいない、何とかせねば、よく考えろ私、なんて自分と向き合わざるをえない場面がたくさんあり、自分の中の他者とよく闘っております。いえ、くだらないことばかりですけれど。これが、なかなか手強くて。わけわからなくなりましたら、“おてんとさまが見てるぞ!” と言い聞かせ、“やりますよ、やればいいのでございましょ、よいしょっと” と一歩進んだりしております。 

“自分の中に織り込まれた「他者」”。自分の中に一体何人いらっしゃるのでしょうね。

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 日々感謝です。