今日も、生涯の一日なり

自分軸で生きると決め早期退職した50代独女のつぶやき

NHK「クローズアップ現代+“死”をどう生きたか 日野原重明 ラストメッセージ」を観て。最期のありがとう・・。

こんにちわ、SUMIKICHIです。
ここ数日は、意識しているわけではないのですが、“生きるとは”“死とは”“お墓”関連のブログ記事が続いております。目につくということは、無意識のうちに求めているということなのでしょうか。8月という時期がそうさせるのでしょうか。

そういう本日も、録画視聴いたしました「クローズアップ現代+“死”をどう生きたか 日野原重明 ラストメッセージ」の中で印象に残ったお言葉をざっくり備忘録しときましょ。脈絡なくて申し訳ございません。

 

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7月に亡くなった医師・日野原重明さん 享年105歳。

100歳を超えてからも現役の医師として活躍、早くから予防医学に取り組み、全国に先駆けて「人間ドッグ」を導入したり、「生活習慣病」という捉え方を普及させた。また、「生き方上手」等の書籍は大ベストセラー。そんな日野原さんが生涯をかけて問い続けてきた言葉がある。“生とは何か”“死とは何か”“死をどう生きるのか”。そこには、医師としての日野原さんの知られざる葛藤があった。

30年にわたり自宅に若い研修医を招き、医師としての自らの考えを伝えてきた。99歳のときに問いかけられた研修医からの質問「医師として最終的な目標はありますか?」に対して「頂上はないけど、坂はあるだけ。やっぱり患者とどうして一体感になるか」と答えた。

 

日野原さんがよく語っていたエピソード
緩和ケア病棟に入院していた60歳位の女性が、亡くなる一週間前、お腹の痛みがコントロールできたときに、「ちょっと外に出たい、私はソーシャルダンスが好きだから、死ぬ前に一回踊って死にたいから」と言って、綺麗な衣装を身に纏って踊った。その写真を僕にくれた。その4日後に彼女は亡くなった。そういう人生もあるんです。


“人は死をどう生きるべきか。そして、生を完成させるこの終末に立ち会う医療は、そこで何をなすべきか”

 

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苦い記憶となる出来事もあった。医師として初めて受け持った16歳の少女の死。
死を受け入れたかに見えた少女に対し、日野原さんは無理な延命を施したのだ。“私は彼女を安らかにみとるのではなく、最期まで苦しめてしまった。そのことがいつまでも心に引っかかっていた” こうした経験を重ねた日野原さんは、終末期医療に力を入れるようになる。

日本で初めてホスピス専門の病院を開設したのも日野原さんだった。

死に向かう最期の時間をどう豊かに生きてもらうか。日野原さんは、患者の理想の死を追求し続けてきた。

「その最期にね、ありがとうっていう、自分が生を与えられたことに対する
 感謝をね、いろんな方面にね、自然にこう、声がでるようなことがあれば
 いいと思いますね。だから私は、いろいろ苦しいときにモルヒネなんか、
 こういろいろするけどね、意識が全くなくなってしまうと感謝の言葉が
 出ないから、そこまで強いお薬を使わなくても、いま死んでいく自分
 だっていうことが分かる意識あればね。その時にその人はそういう言葉を
 心の中にでもね、出すことが出来るっていうように思うわけですよね」

 

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生涯で1,000人を超す患者の死をみとってきた日野原さん。しかし、最愛の妻、静子さんの死は自身にとって全く異なるものだった。

静子さんは、80歳を過ぎた頃から意思の疎通が難しくなり、目に見えて体調が悪化。入退院を繰り返した。日野原さんは医師として静子さんらしい死を迎えてほしいと強く願う一方、夫として、妻の死を前に崩れ落ちそうになる自分も感じていた。

「私自身の生き方とか命を考える、こんなにシリアスに訴えてくることは
  今までなかった。もうこの病気はやむを得ないんだから、ベスト尽くしたから
  これであきらめざるを得ないという気持ちで今までは水に流されたのが、
  今はね、水に流すことは考えられないね」

静子さんは93歳で亡くなった。その最期に、妻から感謝の言葉を直接聞くことは叶わなかった。

講演などで交流してきた歌手の加藤登紀子さんは、日野原さんのこんな言葉に心を揺さぶられたという。

「奥様の意識が薄くなっていても、雲の向こうには必ず月はある、
  雲の切れ目から瞬間的に輝くときがある、その瞬間を待つんですって。
  手を握ってらしていたときのこととか、やっぱりある意味で、最期の瞬間まで
  口には出せない、けれども、なんらかの方法で命は輝いているはずだって」

最後がその人にとって一番大事な表現として人の心に残っていくということ。
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東京オリンピックで聖火に火を灯したいと話していた日野原さん。
その後しばらくして体調を崩し、病床での生活を余儀なくされた。次男の妻・日野原眞紀さんは、当初、日野原さんは自身の死と向き合いきれずにいたと話す。

「やっぱり未知の部分で自分が体験していないから、
『そこにはやっぱり不安と怖さがあるよね』っていうようなことを
  言ったんですよ。人の死をたくさん見てきて、75年も臨床医をやってらして、
  そんな思い、やっぱり怖いっていうのってあるんだなと」


その後、全身の衰弱が進み、食べることも困難になっていく。主治医は、家族の立ち会いの下で、本人に延命治療の意思を確かめることになった。日野原さんは明確に、管を介する管理補給、胃ろうを含めて望まないと。命の終わりを覚悟した日野原さん。

亡くなる3週間前、日野原さんは「新老人の会」に電話し、「講演会にもう一度出たい、行けるようにこれからリハビリをするから」と伝えたという。

講演のテーマは「限られた命をどう使うのか」。もう一度、人々に自分の思いを伝えたい。その一心で日野原さんは歩くためのリハビリを懸命に続けた。その姿を見守っていた眞紀さんは、
「最後までチャレンジ精神でしたね。それは亡くなる4日前も、聞き取れないことばで、私が『何?』って言うと『体操』って言うんですよ。『足の体操をいつもみたいにして』っていう意思表示だったんですね。だからそれはしましたけど、最後はやはり蹴る力がなかった。それが運動の最後の日でした」と話す。

一方、主治医は、「日野原さんは命が燃え尽きていく自らの姿を、医師としてのまなざしで見続けていたのでないか。ご自身の死を自分のものとしてとらえながら、一方ではそのような自分、死にゆく自分を観察してやろうくらいの、それくらいの客観性と好奇心を持ち続けていたんじゃないか。命の終わりが近づいているということはわかっていながら、そこのところの気持ちはやはり行ったり来たりだと思います」と話す。

 

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そして、7月18日。日野原さんは105年の人生に幕を閉じた。感謝の気持ちを伝える最期だったという。

「『ありがとう、ありがとう』の最後でした。子どもたち一人ひとりに、
   『じゃあ誰々と話しますか?』っていうと、『うん』って父が言って、
   それで一人ひとりにラストメッセ―ジをちゃんと伝えていました。
   あなたがよくしてくれたということを自分はすごく感謝していると。
   僕の存在がいなくなったときに、あなたが一番悲しむのは僕にはわかって
   いると。でもそんなに悲しまないでほしいと」

日野原重明さん。死を生ききった人生だった。

瀬戸内寂聴さん・・
死ぬことがどんなことか、お医者さんだったからよくわかってらっしゃったからね、生きるはお好きだったものね。結局、自分が生きていることが誰か人の役に立つ、立ってることが先生にとって、生きることだったんじゃないですか。

人間の精神性の命は、むしろ定年後とか病気をしてから成熟していく。死んで終わらないで、亡くなった後も、その人の残した生き方や言葉は後を継ぐ人の中で生き続ける。これまでの日本人にあった“老い”や“死”を暗く考えるのを180度変えて、チャレンジする新しい生き方を日野原さんは身を持って教えてくれた。“死後生”を考えると、今、どう生きるかへの問いかけ、“死を生きる”ということ。       (完)

 

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私にとりまして、番組の中に特に目新しい答えがあるわけではないのでございます。ですが、時々ふと脳裏をよぎる漠然とした“死”について、いえ、“死に至るまでの生”“生き方”と言った方がしっくりくるのでしょうか、その問いに向き合いながらも、生来の、まっいっか、が邪魔?現実に引き戻してくれる?とかして、ふわふわした気持ちのまま日々過ごしているところもあるので、ほんの少しのヒントになりそうなコトはございました。誰にも頼らず、迷惑かけず独りで生きていけるわと強がっているのは良いけれど、じゃあ、最期に「私が“ありがとう”って言いたい人は誰?ちゃんといるの?」「本当に“私”を知って覚えていてほしいって人はいるの?いてほしくはないの?」「残したい言葉はないの?本当にないの?」って内なる自分に問いただすと・・・今は、自信持って「必要ない!」と言えない自分に気づいたりします。実は、「必要ない!」って割り切ってた方が楽、独りの世界にどっぷり浸かってた方が楽、なんですよね。それでは、重さも深さもなくて、本当に軽い人でございますね。ですから、私の場合、自分が誰かの役に立てたら、というそんなおこがましいことではなく、私が最期に感謝の言葉(社交辞令的なものではなく)を伝えたい人とちゃんとつながっていられるように、生き抜かなきゃいけないなぁーと、自分の夢を叶えたい、叶えるために今後の人生を使いたい、それも大切ですが、そういったことじゃないコト、私に欠けているコトにも命を注がないといけないのかなー、なんて当たり前のことながらしみじみ想ったのでございます。やはり、8月って、こんなことを考えてしまう時なんでしょうかしら。

最後に、昨日先方の手違い(と本人は主張)で間違えて研修会場に行った居候Kくん、本日無事研修を終えたようで、帰りにキャベツとネギを買ってきてもらいました。明日も引き続き研修のよう。先月こちらに戻ってきた時より、顔つきが締まってきたようでございます。人間、やはりすべきことがあると多少イキイキしますよね、って、完全に私のしもべと化しているのですが。Kくん、最期には私にちゃんと感謝の意を表明してくれるのかなぁ?えっ?人に求めてばかりでどうする?あっ、そうでした、すみません。うーん・・Kくんが先に旅立ったら・・私が墓じまいせねばならぬ!それは困る!って、やっぱり私は、自分が可愛いようでございます。

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日々感謝です。