今日も、生涯の一日なり

自分軸で生きると決め早期退職した50代独女のつぶやき

『泥があるから、花は咲く』青山俊董老師の講話会に参加。時間の使い方は命の使い方。

こんにちわ、SUMIKICHIです。

昨夜、呉市内の神応院で行われた青山俊董老師の講話会に参加いたしました。私の劇団仲間仏教大好き同級生男子Aさんからのお誘いで、青山俊董老師のことを全く存じ上げていませんのに、著書のタイトル『泥があるから、花は咲く』に惹かれたましたので。

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青山俊董老師は、五歳の時に長野県の曹洞宗無量寺に入門。15歳で出家得度し、名古屋市正法寺・愛知専門尼僧堂で修行、1976年から尼僧堂堂長に。2009年には同宗の僧階「大教師」に尼僧として初めて就任、という経歴の持主でいらっしゃいます。昨年12月刊行の『泥があるから、花は咲く 』が話題になっているようですね。

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“苦しみや悲しみを肥料とし、美しい花を咲かせるために 乾燥した高原や陸地には、清流には蓮が育たず、泥沼、泥田の中にしか、美しい花は咲かないと言うのです。(本文より抜粋)”・・・興味津々でございます。

著書の帯文には、ベストセラー『置かれた場所で咲きなさい』の著者で親交の深い、ノートルダム清心学園理事長を務めたシスター(キリスト教カトリック修道女)・渡辺和子さんが推薦の言葉を寄せていらっしゃいます。

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ちなみに、Aさんは、前からこの著書を購入して読んでおり、たまたま新聞でこの日の講演会を知って、これも何かの縁だと参加を即決したそう。で、変人の私ならきっと行くだろうと連絡頂きました。どういうこと?

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さて、講話会。青山俊董老師のお話(説法?)は夜7時半頃から始まり、参加者は約40人位、ほぼ檀家さんのようで、我々二人は新参者でございました。現在84歳というお歳にもかかわらず、ゆったりと静かにですが、低くしっかりとした口調で語られるお言葉は胸に響きます。内容を詳細に綴るのはどうかなと思いましたので、超ざっくりキーワードなんぞを備忘録しときましょ。

前述しましたが、親交の深かった渡辺和子さんは昨年末お亡くなりになられ、青山俊董老師は葬儀の際、友人代表としてご挨拶されたそうで、この日は渡辺さんを偲びながらの講話ということでした。

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◆青山俊董老師が渡辺和子さんからお聞きしたお話①。
若い頃、毎日、食事の支度でお皿を並べる作業をする際、つまらない、つまらないと思いながら並べていたら、えらいシスターに「このお皿の前に座る一人ひとりの幸せを願いながら並べてみてはいかがですか?」と言われ、ハッとしたと。一日24時間、一年365日、皆に平等に与えられた時間だがいつかは死ぬ、その間を暗闇の気持ちで無駄に過ごすのか、光があたる意味のある時間として過ごすのか、“時間の使い方は命の使い方”である。

◆このお話を受けて青山俊董老師世は語る。世に雑用はない。競馬場での仕事を定年退職したある高齢の女性のお話。なかなか次の職が見つからず、御世話になって来た競馬場の便所掃除を自ら進んでやることに。その便所は常に落書きされ汚かったので、ある時‘私の大事な職場を汚さないで下さい’と書いた紙を貼った。すると、落書きがピタっとなくなったらしい。同じことをするとしても、俗事にするか、佛事にするか、取り組む人の姿勢ひとつで世界は変わる、と。

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◆青山俊董老師が渡辺和子さんからお聞きしたお話②。
これが最後の来日になるかもしれないというマザー・テレサの通訳をした和子さん。話の流れで、とても貧しいインドのカルカッタに自分達(和子さん達)も出かけお手伝いをしましょうとマザー・テレサに提案すると、「わざわざお金と時間をかけて遠いカルカッタまでお越しにならなくとも、あなたの近くのカルカッタに心を配りませんか」と諭された。青山俊董老師は、遠くまで行ってお助けした方がやった感はあるかもしれない、それに、身近な人に心を砕くのはなかなか難しいですね、しかし、そこに真理があるのでは、と言う。

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◆流刑地に送られた親鸞。しかし、親鸞にとってどこであろうが関係なかった。その地の人々は親鸞の人柄に触れ、天台宗から浄土真宗に改宗したと云われる。その方の行くところがお浄土になる。ここで相田みつおさんの詩を引用され・・

    あなたがそこに ただいるだけで
    その場の空気が あかるくなる
    あなたがそこに ただいるだけで
    みんなのこころが やすらぐ
    そんな あなたにわたしもなりたい

おそらく、親鸞はそんなお方だったのでしょうとのこと。極楽、地獄は向こうにあるのではなく、自分の心ひとつ、生き方ひとつで展開する。

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◆自分の中には、仏と鬼が住んでいる。自分の中の鬼が、相手の鬼を引き出す。相手が、世の中が悪いのではない。全て自分の心が映し出すもの。相手を変えようとしない。自分が変われば世界が変わる。

◆『相応部経典』の中から 

    人のおもいは、いずこへもゆくことができる。
    されど、いずこへおもむこうとも、
    人は、おのれより愛しいものを見い出すことはできぬ。
    それと同じく、
    他の人々にも、自己はこの上もなく愛しい。
    されば、
    おのれの愛しいことを知るものは、
    他のものを害してはならぬ。

仏教の2500年の歴史の中で血は流されていない。それは“不害”の歴史であり、「慈悲」の歴史であるから。

乱暴に、簡単に云うと見出しの“自分が傷つけられたくないように、相手も傷つけるな”ということのようですが、説明の仕方が興味深い(よく見聞きするかな)、著書のP121あたりにございます。

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ざっくりのはずが、エピソードが沢山有り過ぎて・・・人の手の温もりの大切さ、とか、無理してでも笑顔、嫌われてでも言うべき時には言うべきことを言う、など・・また長くなりますので、この辺でやめておきます。どこかでよく聞くよね的なお話でも、誰が、どういう風に発するかで響き方が違います。なーんて。

約一時間少しの講話終了後、失礼かと一瞬逡巡したのですが、これも何かの縁!一期一会だ!と写真撮影とAさんの購入本へのサインをお願いしてみました。なんと、お疲れのところ快諾して頂きました。

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ここで、猛省。私はSさんに本を借りることになっていましたので、その場で購入せずに写真撮影を申し出てしまい・・何か話さなければ、と思った私は「癌を経験して以来人生観が変わり、本日ここに導かれ・・なんちゃら」と話しましたら、本を持ってらっしゃらないの?サインしましょう、と言って下さり・・ですが、購入しておらず、またまた赤面。機転をきかして、Sさんが買ってきてくれ、それにとても染みるお言葉を添えて下さいました。

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さらに、さらに、片手を差し出されたのですが、多少舞い上がり気味の私は、なんと、両手ではなく、私も片手で返してしまい、後で冷静になって振り返ると、そこは普通両手でしょ!と落ち込んでしまいました。ああ、私の本性は、50歳過ぎてもそんな程度の礼儀知らずなのだ、口に出す言葉と行動がちぐはぐではないですか。ああ、この講話会は、こういう自分に気づき、受け入れ、成長への糧とするための場だったのでございましょう。

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日々感謝です。