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今日も、生涯の一日なり

自分軸で生きると決め早期退職した50代独女のつぶやき

Eテレ「100分de名著 人生論ノート・三木清 第3回〜「孤独」や「虚無」と向き合う〜」を観て。“孤独”は“知性”かぁ。

こんにちわ、SUMIKICHIです。

すっかりレギュラー視聴するようになったEテレ「100分de名著」。今月は、1937年に冒頭の一章が発表されて以来80年近くもロングセラーを続ける名著「人生論ノート」。第3回は、人間の条件である「虚無」や「孤独」との本当のつきあい方に迫る、というもの。ざっくり備忘録しときましょ。

 

まず、ここで言う“虚無”というのは“ニヒリズム”ではなく、“人間の条件”という意味で使うとのこと。“人間の条件”が“虚無”だからこそ、我々は生きて行く価値があると三木は考えた。(どういうことなんだろ?)

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“虚無”を大海に例えるならば、私たち人間は海の中にある一粒の泡のような存在でしかない。しかし、いかに小さな存在であっても海がなければ泡も存在しない。つまり、海は泡が存在するための条件であり、“虚無”な人間が存在するための条件なのだ。さらに、とてつもない広大な世界で生きるために人間には、“形成力”が必要であると三木は考えた。

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冒頭から伊集院さんは、これはもしかしたら番組始まって以来の難解なくだりかも・・と言う。(同感。)

岸見先生の解説によると・・
広大な海の中で人間は、泡や波のような存在で非常にちっぽけ、それに対して海があまりにも広大過ぎて生きて行くことに絶望するような徒労感、無意味感に襲われる、でも生まれてしまっているという事実もある、海の中に放り出された我々はもはや“存在する”という事実から逃れられないならば、自分自身で生きて行く“意味”を作っていかないといけない、だから“虚無”からの“形成力”、“人生は形成である”と語っている、とのこと。

“虚無”を“世界”とか“宇宙”とかに置き換えても良いのか?良いらしい。(その方がわかりやすいと私も思う)

自分なんかいてもいなくても世界は変わらないし、無意味な人生であったとしても誰かによって決められるわけではない、自分で形成して行くしかない。と同時に、三木は社会が変容したことで、現代人の自己形成は難しくなったと言っている。

『限定された世界』から『無限定な世界』へ。
昔は生まれて死ぬまで知り合う人は100人に満たず、お互い相手の顔も名前も知っている世界、しかし現代はまさしく極論すれば、ネットでつながっていて会うこともない、そもそも自分とリアルな相手との間で個性は作られるのに、今は個性を作る関係が無数にあり、無限定なアノニム(匿名)な存在になっている。無数の多くの人とつながっているのに、人は孤立とていってしまう、そんな現代社会。

 

そんな社会の中で、三木は“虚無”との向き合い方をこう説いている。

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三木は、“虚無”から何かを形作る力を“構成力”と名付けた。そして、構成力のためには、“混合の弁証法”が必要だと考えた。

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弁証法とは、本来矛盾や対立を統一する考え方。しかし、三木は矛盾や対立を解消せず、それらを混在させて抱え込んだまま混合していく方法を提案。そのためには“秩序”が必要となる。様々な要素の配列や組合せを変えて、適切に位置づける。それによって人間は“虚無”から脱出できると考えた。

たとえば、クラスでソフトボールをするかドッヂボールをするかで子供たちが分かれた場合、どちらかが優れているからと退けるのではなく、時間や順番を決めてどちらもやろうと決める。このように異質な考え方を排除せず全て受け入れていこうとする場合には、秩序が必要。

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岸見先生の場合、書斎の棚に本がたくさん積んであるが、それを他人が大きさを揃えるなどして一見美しく整理すると、本人は使いづらくなる、つまり、“秩序”とは、上から押し付けたり機械的に切り捨てたりするものではない、必ず温かさがないといけないと言う。

伊集院さんは、さきほどのソフトボールかドッヂボールかの話でいえば、ドッヂボールの方がカロリー消費率が高いからそっちにしましょう、となると一見秩序だってみえるけれど冷たいって感じですかねと確認し、ならば、これを実現させるのは工夫がいりますし、なかなか難しいので押し付けがちになりますねと話す。

 

さらに、三木は“国家の秩序”についてどうあるべきかも考察した。

ヨーロッパでナチスドイツにより、第二次世界大戦の火蓋が切られたころ、三木は近衛文麿を中心にした研究会のブレインとなり、政治の世界に足を踏み入れる。日中戦争を何とか終結させられないか、時代を生きる哲学者として積極的に国策研究に関わる。しかし、現実は悪化の一途をたどり、戦争は泥沼化していく。昭和15年、成果のないまま昭和研究会解散、あえて体制に加担しファシズム軍国主義に抗してきた三木にとっては、大きな挫折でもあった。その翌年に三木は、“秩序”についてを書きあげる。

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三木は、“外的秩序”という言葉で“国家の秩序”について考察した。国家は自分に都合の良い秩序を強制しようとするが、心の秩序に合わないものは真の秩序とは言えない、戦時下にあってその考えをギリギリの表現で説いたのかもしれない。

 

また、三木は“価値多元主義”の危うさにも気づいた。
現代でいえば、例えば、ヘイトスピーチなんかは、言論の自由だといえば誰も反対できないように、“価値多元主義”ではなく、土台となる価値を認めなければならない、“価値体系”の大切さに気づいたのだ。

ここで言葉の使い方で間違わないようにしないといけないのは、“弁証法”でドッヂボールもソフトボールもどちらも生かすというやり方をさっき聞いたが、この“価値多元”と“価値体系”は別ですか?と伊集院さんは尋ねる。
ベースになるものがないのに全てを受け入れてしまうのは危険だ。

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これを土台にしてさえいれば、“価値多元”を内包することは可能らしい。逆に、それがなければ、アナーキー(虚無主義)に陥ってしまう。何も価値観が無い所に新しく強力な価値観を植え付けることは簡単。子どもや世の中のことを考えていない若者などに対しては簡単に扇動できる。だから、秩序の根源には“人間の尊厳”を認めるという“価値体系”が必要。

ここは大切なところで、虚無という大海に生れて、自分で形成していかなくてはならないという基本をしっかり心に刻んでおかないと大勢に流される。そして、「ニヒリズムは独裁主義の温床である」とも言う。

 

昭和15年、三木は“孤独”についてを発表。

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三木は、“孤独”には美的な誘惑があり味わいがあると書き、決して“孤独”を乗り越えよとは言わなかった。むしろ、たったひとりであることを自覚して孤独に耐えることは生きる上で大切なことだと言う。

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伊集院さんは過去を振り返って・・
高校の頃、学校に行かなくなったあたりでは、ホントにひとりだった、当たり前に孤独だった、しかし今、わりと大勢の人たちと楽しく関わり、あの頃の僕からすれば望んでいた世界にいるような感じだが、もっとマズい孤独感が襲ってくるときがある、孤独は人との間にあるものでそれが必要ってなってくるって、それはどうしたことかと・・・と腑に落ちないご様子。

岸見先生は、高校生のときに一人も友達がいなくて、心配した親が先生に、大丈夫でしょうかと尋ねたところ、先生は「岸見くんは友達を必要としない人だ」と言ってくれた、世間では友達は多い方がいいと言われるがそうじゃなくてもいいんだ、自分がひとりでいられることに先生は価値を見い出してくれたんだということに驚いたという経験があると話す。

自分が人と意を異にするということでひとりになる、孤独になることはあるが、その孤独に耐えられることが大切なんだ、“孤独の内にいられる”ことが“強さ”なんだということらしい。それが“知性”の意味なんだと解釈できる。

これが書かれた時代は、この真逆の時代。心の中ではおかしいと思っていても、“孤独”の恐ろしさから、周囲のイケイケドンドンに染まらざるをえなかった。いつの時代にも、どんな場面でも、自分はそれに賛同できないと輪からはずれることができるのは、“知性に属する孤独”をちゃんと持っている人といえる。

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最後に、哲学者が全てもうわかったという視点で書くものだと思いがちだが、何度も失敗して不屈の精神で闘ってきた本ですね、と伊集院さんは感想を話す。

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“虚無”や“孤独”がこんな風に表現されるとは驚き・・いえ、戸惑いますね。「人生論ノート」そのものを読んでいませんので生意気なことは申せませんが、やはり番組で説明して頂いた方が理解しやすそうですね。番組よいしょではございませんので。

三木さんの論は難解ですが、伊集院さんの若かりし頃の“孤独”と大人になって仲間たちがたくさん出来ての“孤独”の質の違い、岸見先生の友達を必要としない“孤独”を受け入れてもらえた時の喜び・安堵など、凄く共感いたします。私も、大勢の中での“孤独”は、ひとり時間の“孤独”よりつらい時がございます。まぁ、かといって、なにやらの信念があっての“孤独”ではなく、ただの引っ込み思案ってことですけれど。

“虚無”にしても、自分には何にもないなぁー、何をしても虚しいなぁー、とずっと感じて生きていて、それそのものが“虚無”なんだと思っていましたが、そもそも“虚無”の中に人間が生まれたのだと言われますと、概念が覆されますね。じゃあ、虚しさは当たり前のことなのかと。ホッとするような気が抜けるような。これについては、前述しましたが、“世界”とか“宇宙”とかで表現して貰えると理解しやすいです。

同じ言葉でも、文学と哲学、その他のジャンルで微妙に意味合いが違うんですよね、そのうち慣れるのかな。それとも、自分の学んできた世界が狭いってことなのかな。

まぁ、私は独り者、おそらくこれからも。そうそう、“孤独”は“知性”、“孤独の内にいられるのが強さ”、ほぉーっ、言葉を鵜呑みにさせて頂けるならば、私は結構イイ線いってるかな?“孤独”に愛された人間ってことにしておきましょ。

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日々感謝です。