今日も、生涯の一日なり

自分軸で生きると決め早期退職した50代独女のつぶやき

Eテレ「100分de名著〜中原中也詩集〜「愛」と「喪失」のしらべ〜」第2回を観て。青春が血管かぁ。

こんにちわ、SUMIKICHIです。

20代の頃からうーっすら気になっていました詩人“中原中也”。Eテレ「100分de名著」1月の特集はその“中原中也”。

本日は、第2回〜「愛」と「喪失」のしらべ〜をテーマに、「盲目の秋」「朝の歌」といった中也の詩を通して、「愛」や「喪失」が人間に何をもたらすのかや、そうした苦悩にぶつかったときに生まれる言葉の奥深さを明らかにしていくという内容。

では、備忘録としてざっくり綴っておきましょ。     

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大正12年、中也が京都に移り住んだ時、関東大震災が発生し、9万人以上の死者と135万人の罹災者が出て東京は半分が消失するほどの惨状。多くの人が関西に避難する中、ひとりの女優を志す女性(長谷川康子)も罹災者として京都にやってくる。

大正12年冬、京都で一人暮らしを始めて間もない中也は、ある劇団の稽古場を訪ねる。そこにいた女優の卵・長谷川康子に、中也は自分の書いたダダイズムの詩を見せると、「面白いじゃないの」と褒めた。彼女もまた新しい芸術に敏感な若者だった。

二人は意気投合し、急速に親しくなる。劇団がつぶれ、泰子の行き場がなくなった時、中也は自分の下宿においでと声をかけ、16歳と19歳、二人の同棲生活が始まった。

 「私の方が年上だけど、
  中也は兄のようにも
  父親のようにもふるまい、
  詩ができるとすぐ見せてくれました。
  中原がそれを読むのを聞いて、
  私は涙をポロポロ流して、
  泣いたときもありました。」
        ―『ゆきてかへらぬ中原中也との愛』―

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大正14年春、中也は詩人としての成功を求めて上京する。その傍らには女優への夢を抱えた泰子がいた。

強烈な自我を発散させていた上京当時の中也。間もなく友人を介して、後に批判家となる小林秀雄と知り合う。5歳年上で秀才と呼び声高い東大生。

 「私はNに対して初対面の時から
  魅力と嫌悪とを同時に感じた。
  Nは(略)ダダイスト風な、私と正反対の虚無をもつてゐた。
  彼は自分でそれを早熟の不潔さだと説明した。」
                    ―小林秀雄の手記より―

二人は才能を認め合い、互いの家を行き来する親しい友人となる。中也と違う都会的な優しさを持った小林に、泰子もまた惹かれていく。
やがて、泰子と小林は中也に内緒で二人きりで会うようになり、11月のある日、ついに泰子は、小林のもとに行く決意をかためるのだ。
「私は小林さんとこ行くわ」
中也はその後、泰子の荷物を抱えて、小林の家まで運んでやったという。

 「私はほんとうに馬鹿だったのかもしれない。
  私の女を私から略奪した男の所へ女が行くといふ日、
  車に載せがたいワレ物の女一人で持ちきれない分を、
  私の敵の男が借りて待つてゐる家まで
  届けてやつたりした。」
                 ―未発表随筆 我が生活

その帰り道、ひとりぼっちになった中也は、大きな衝撃に見舞われる。
   

    私は、大東京の真ん中で一人にされた!―俺は、棄てられたのだ!

 

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ここで、スタジオの伊集院さんは、自分で自分がわからなくなった衝撃が大きかったんでしょうね、ああ、泰子とかは書いてなくて、失恋したことに対しての恥ずかしさに戸惑い、また、新しい“試練”というジャンルに向かって分析が始まっている感じと言う。

作家の太田治子さんは、彼はいつも、もう一人の自分に救われ、そのもう一人の自分が詩を書かせたんでしょうねと言う。別れたあとなのに、「私は自己統一ある奴、宇宙を知ってゐた」と分析している。

 

そして、中也は別れた後もたびたび泰子のことを詩に書いた。「盲目の秋」の一節、去りゆく女への詩である。

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別れてから4〜5年後に書いたもの。スタジオでさらに解説。

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曼珠沙華”や“夕日”の赤を“血管”と表現するところに、たまらなくせつないものがある。青春というものが激しく過ぎて行った、“無限の前に腕を振る”という言葉で、絶望の中ででも生きていこうとしたのがわかる、美しく、たまらない、と太田さんは語る。

 

このあと中也は、友人からも詩作からも遠ざかり、孤独のうちにあった。しかし、泰子との別れから半年後、ついに一篇の詩を書きあげる。
“「朝の歌」にてほぼ方針立つ”と自ら記すほどのターニングポイントとなる詩。

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完成直後、まず、小林に見せたという。朝起きて人はみな仕事に向かい働いている時間も、自分はずっと寝ている、何もすることがない、早く起きなさいと言ってくれる人もいない、誰もいない、たったひとり、東京で・・といった“倦怠感”と“喪失感”に包まれた詩。

この詩について、詩人・佐々木幹郎氏は、どういうかたちで今現在の自分がいるか、そして、“今のままでいいんだ”という気持ちがよく出ている詩だと話す。これを小林に見せたのは、自分自身はたくさんのものや夢を失ったが、その夢が今美しき様々な夢になって昇華しているんだと、そういう世界を俺は身籠ったよ、と伝えたかったのではないか、中也の詩人としての出発のベルだと思う、自らの“喪失感”と向き合うことで再び歩き出した、と。

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スタジオでは、この詩で一気に作風が変わった、苦しみから半年かかって“文語定型詩”へ、よく読むと決して難しいものではなく、音楽を感じさせるやわらかい詩だと言い合う。情景を詠んでいるんだけど、心情が伝わってくる、風景を書いているようで実は心の風景なのだとも。

伊集院さんは、かつて一歩も前に進めない時期に、渋谷のスクランブル交差点をぼんやり見ていたら、行き交う人全員に“夢”とか“絶望”とかあるんだよな、自分だけがつらいんじゃないんだと気づいて元気になった経験を話し、中也の詩の中の“ゆめ”が最後の行で“夢”と漢字に変わっていることで“希望”が見えてきたんだなと感じたそう。

ちなみに、泰子は結局小林とも別れ、どちらのもとへも戻らなかったらしい。終了。

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解説して頂かないと読み解けないなんてお恥ずかしい限りですが、作風ががらっと変わったことは理解できました。それと、的外れなことをひとつ思いました。

この歳になって(年齢関係ないか)感じるのですが、表現の場においての“型”って、本当に重要ですよね。若い頃は人と同じモノコトは嫌だ、規制、既成、定型、そんなもの壊したい、ってギラギラ(決して表面には出さない腹の奥底で)してたような気がしますけれど、普通、世間一般、基準、など比較対象物がないと、斬新なのか新しいのかわかりませんよね、実は。何が言いたいのかな?私・・そうそう、中也の「朝の歌」を見て溢れ出す中也の再生への決意が型に凝縮されてて一種の緊張感を、私は、感じました。型にはめようとしても、どうしても溢れ出る、零れ落ちるものが個性だと思うようになったんですよね、私。

と、生意気なことを書いておりますが、この番組で流れを追って見ているので以前よりは考えられるようになっているのでございます。あっ、私、番組広報の回し者ではございませんので。

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日々感謝です。