今日も、生涯の一日なり

自分軸で生きると決め早期退職した50代独女のつぶやき

Eテレ「100分de名著「歎異抄」第1回~人間の影を見つめて~」(再放送)を観て。

こんにちわ、SUMIKICHIです。
すっかりレギュラー視聴するようになったEテレ「100分de名著」。今月は「歎異抄」(以前に放送されていたようですね)。
一宗派の壁を超えて、多くの人たちに読み継がれている宗教書、西田幾多郎司馬遼太郎吉本隆明遠藤周作等々……数多くの知識人や文学者たちが深い影響を受け自らの思想の糧として、また、信徒であるないに関わらず、膨大な数の市井の人々の人生の指針となってきた名著。

第1回は、親鸞の人となりや弟子・唯円が「歎異抄」を執筆した背景を紹介しながら、人間の「影」を見つめ続けた親鸞の教えに迫っていく、という内容。指南役は、相愛大学人文学部教授で比較宗教学者釈徹宗さん。

私、かつて手に取ってはみたもののじっくり読んでいませんでした。ざっくり備忘録しときましょ。

         f:id:sumikichi52:20170627233252j:plain

まずは基本情報から。

   f:id:sumikichi52:20171007125752j:plain

仏教といえば、修行して悟りを開いたお坊様が人生の難しさや尊さを教えてくれるといったイメージがあるが、そういうイメージをひっくり返す、揺さぶるような教えを孕んでいる書。時に、喉元に刃を突きつけるような厳しさも、また、この書をむやみに人に読ませてはいけないというような注意書きまでついている。

執筆動機は・・

   f:id:sumikichi52:20171007125753j:plain

色々勝手な教えを広めたり、異なった解釈をする人たちがいる、このままだと惑わしてしまうという嘆きがあって、この文章へと続く。知識とは仏の教えを説いて導く先人。決して自分勝手な解釈を振り回して、他力の教えを乱してはいけません。

 

誤解されやすい、とは何なのか?

‘易行’‘他力’とは何なのか?これは、親鸞、元を云えば、そのまた師の法然が説いた教えの基本。もともと仏教の主流は、修行や学問によって煩悩を無くし、悟りを開くというものだった。出家して世間と離れた所で難しい経典を読み込む毎日。これは誰にでも出来るものではない。だから‘難行’。僧侶が自分で努力して悟りを開くもの、自力の仏教。しかし、法然は、これに疑問を抱く。誰もが救われてこその仏教だと考える。そこで彼が注目したのは、中国・唐の高僧が伝えた阿弥陀仏の名を唱えることで誰もが救われるという教え。

   f:id:sumikichi52:20171007125754j:plain

厳しい修業が出来ない凡人は、阿弥陀仏の名を唱えなさい、そうすれば誰でも浄土仏の世界に行けますよ、というもの。‘南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏...’、この念仏を唱えるだけ。だから、‘難行’の反対の‘易行’。しかも、自分が悟りを開くのではなく、阿弥陀様がお救いくださる、だから、‘自力’じゃなくて‘他力’。これなら僧侶だけでじゃなく、どんな人でも救われる。こうして、仏教に革命を起こした法然。その教えに出会い、深く共感したのは親鸞。その教えを受け継いだ。

 

スタジオでの解説・・

     f:id:sumikichi52:20171007125755j:plain

右側部分の方が最初から説かれている。仏様を信仰して救われるというのは小さな脇役だったけれど、法然はこの主役と脇役を入れ替えた。

伊集院さんは、誤解されやすいっていうのはわかります、だって、何もしなくて(修行とか)いいんならそうしますもん、と言う。

‘他力本願’っていうのと同じ?
日本語の中には仏教用語がびっしりと入り込んでいる。本来仏教の大切な教えなのに、たまに良くないこととして転用されたりする、たとえば、‘嘘も方便’とか‘有頂天’とか。‘他力本願’も、本来は“阿弥陀様の願いの力”ということなんだけど、‘人任せ’って使われている。

難行している人からすると、なんで易行も救っちゃうの?って思わない?
法然は、従来の仏教の枠組みからこぼれる人に目を向けた。一旦仏教を解体する。キリスト教イスラム教は‘救い’、救済型で、神への信仰によってのみ救われるみたいなタイプの宗教。仏教は‘悟り’、自己啓発型で、修行して大きく転換していく。しかし、‘易行’は他力の道、つまり、救い型仏教という感じがする。

 

歎異抄」の前半は、親鸞が弟子の唯円に直接語った言葉。では、歎異抄第一条。

   f:id:sumikichi52:20171007125756j:plain

   f:id:sumikichi52:20171007125757j:plain

 

スタジオでの解説・・

     f:id:sumikichi52:20171007125758j:plain

アミダというのは、インドのサンスクリット語に漢字を当てはめたもの。ミタは‘限り’、アがつくと否定になるので、‘限りが無い’、アー・ユースで‘命 限りなし’。アー・バで‘光’、‘限りない光’。アミダというのは、‘限りない命’と‘限りない光’のはたらき。ちなみに、‘寿限無(じゅげむ)’は寿命限りなしからきていて、阿弥陀仏のこと。

頭に‘南無’をつけると、サンスクリット語ナマスに当て字をしたもの。平たく言うと、‘おまかせします’。口に南無阿弥陀仏と唱えるのは、もともとの意味から言うと・・

   f:id:sumikichi52:20171007125759j:plain

生きる姿勢を表す言葉。阿弥陀仏は、仏教が持っている救済原理の象徴。

 

伊集院さんは、僕、急に腑に落ちてきました、今感じている、この競争社会で落ちこぼれた人どうすんの?誰が救うの?落ちこぼれた人の中には、本当に努力したけどダメだった人がいるわけで、勝ち組の人は俺は難行を超えたんだから救われて当然となるけど、社会は前者を救わなきゃおかしい、なんかそれが阿弥陀様のような、と話す。

指南役は、努力して到達した人の欺瞞、高慢を鋭く突くっていう面と枠からこぼれる人たちの道筋という両面がある。しかし、こぼれる人の中に、努力してダメだった人とはなから舐めている人がいて、両方救っていいのかっていう・・概念としては・・・。

 

歎異抄第二条。
京都に親鸞のもとに関東からはるばる弟子たちがやって来て、念仏について教えを乞う。当時関東では、念仏を鋭く批判する人もいて動揺が広がっていた。念仏すると地獄に堕ちるんですか?と聞かれた親鸞、すると・・

   f:id:sumikichi52:20171007125800j:plain    

   f:id:sumikichi52:20171007125801j:plain

親鸞は弟子たちにそう言い放った。

 

スタジオでの解説・・
二ヶ月以上かかった大変な旅、それだけの時間をかけて来た弟子たちに、知らん、難しいことを聞きたかったら学者に聞きに行けと言う。親鸞という人は、こういう面に関しては本当に厳しいところがある。本当に救われるかどうかわからないけども、俺はもう、この道しかないんだというある種の独白という感じ。

 

親鸞は、京都の下級貴族の家に生まれ、9歳で出家。20年間比叡山で厳しい修行を続けたが、煩悩が消えないことに苦しんでいた。そんな折出会ったのが法然の教え。親鸞は、念仏者の道を歩み始める。念仏すれば誰もが救われると説いた教えは、武士や庶民の信仰を集め広まっていった。しかし、やがて、旧来の仏教勢力から糾弾され、法然親鸞は新潟と四国に流罪。僧侶としての資格を奪われてしまう。4年後に赦免され、関東に移った親鸞は、僧侶でも俗人でもない非僧非俗として、庶民と生活しながら教えを広めた。親鸞は、肉や魚を食べ、妻をめとり子供も7人いたと言われている。これまでの仏教の戒律にとらわれず独自の道を歩んだ。

 

スタジオでの解説・・
親鸞は‘愚禿(ぐとく)’と名乗る。おろかなはげあたま、かもしれないし、‘一人のおろかな人間’として立つ。90年生きてるが、一度も悟ったと言わなかったお坊さん。真っ暗な中にいる自分に仏教の教えという光が当たって、パアっと闇がはれて、どんな姿をしているか見えてくるし、どこに立ってるかも、どこに進んでいけばいいかわかってくる、でも、光が当たってパッと下を見ると影が出来てる・・光が強ければ強いほど、なお一層くっきりと、影が浮かび上がる・・という、ここを一生ごまかさなかった。光と影の緊張状態が生涯続く、だからこそ生まれた思想、というのが第四条に出てくる。

   f:id:sumikichi52:20171007125802j:plain

この世でどれほど愛しい、不憫であると思っても、思い通り助けることは大変困難であるので、この慈悲は不完全なものである。私たちが日常生活で起こす慈悲の心や行いは不完全なものだと親鸞は言う。2011年の震災、大きな波にのまれた方、この手を離さないでおこうと思っても離れてしまい、一生愛する人と会えなくなったとなった・・思い通りにならない・・これが生きるということ。

伊集院さんは、劇薬だなと思うのが、この言葉を聞いて、あきらめちゃう人とだから頑張れる人とがいるってこと。

指南役は、NPO活動をしていて認知症や難病の方と関わっているが、時々四条が囁いてくる、おまえ、いいことしてると思ってるんじゃないのか、とか、どこまでいっても自分の都合が混じってるだろ、とか。だから続けられるという面もあるけど。何一つ思い通りにならないということが本当にわかったときに、じゃあ、何するの?っていうふうな課題も突きつけてくる、と話す。

最後に伊集院さんは、いいなと思うのは、このことを知ってて、何かにぶつかった時に、僕は、これを思い出すことはある、これをもとに、やらないいいわけにするくらいなら、今は知らなきゃいけない言葉がある、このあとも理解していきたいと締めくくる。                   (完)

 

         f:id:sumikichi52:20170627233249j:plain

そもそも「歎異抄」の意味からして誤解しておりました。今回再放送して頂いて良かったな、これも何かの縁だと思います。真っ暗闇の中にいる自分に光が当たって、その光が強ければ強いほど、影がくっきり出来る・・自分なりの解釈しか出来ませんが、生きるってそんなこと。私は、太陽の光が苦手です。真夏の戸外は苦手です。単に紫外線や日焼けがいけないというだけですが、明るく照らされることが苦手です。舞台でもスポットライトが当たるのも苦手で、そこから逃げたくなります。自分の本性がさらされるのが怖いのかもしれません。って、別に何を隠し持ってるわけでもないのですが。

それと、指南役さんのおっしゃる、何か人のために良い事をしてる時に、四条が自分をつついてくるというあたり、よくわかります。私ならそれに負けて、何もしなくなるんですが、だからこそやり続けるんだというお言葉に、そうかぁ・・常に内なる自分と自問自答しながら行動なさってるのだなと考えさせられました。自分だけがぐじゃぐじゃ考えて身動き出来なくなってるんじゃないんですよね。

         f:id:sumikichi52:20170627233248j:plain

日々感謝です。