今日も、生涯の一日なり

自分軸で生きると決め早期退職した50代独女のつぶやき

Eテレ「100分de名著 ―野火― 4回〜異端者が見た神〜」を観て。NO!というのが文学者の役目・・。

こんにちわ、SUMIKICHIです。
すっかりレギュラー視聴するようになったEテレ「100分de名著」。今月は大岡昇平の「野火」。大岡昇平の代表作「野火」は、太平洋戦争末期、絶望的な状況に置かれた一兵士が直面した戦争の現実と、孤独の中で揺れ動く心理を克明に描きだした作品。戦後文学の最高傑作とも称される「野火」は、数多くの作家や研究者が今も言及し続け、二度にわたる映画化を果たすなど、現代の私たちにも「戦争とは何か」を問い続けている。番組では、作家・島田雅彦さんを講師に迎え、「野火」を現代の視点から読み解く。第4回は、映画監督の塚本晋也さんをゲストに招き、映画化の経緯や自分自身の解釈も交えて読み解いてもらうことで、「野火」という作品が与えた後世への影響や現代の私たちがこの作品から何を受け取るべきかを考えていくという内容。

お恥ずかしい話ですが、私、読んでいませんので、ざっくり備忘録しときましょ。 

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塚本監督は、3年前に「野火」を映画化。高校生の時に読んで以来の長年の夢だった。第一印象は、あまりに強烈だったが、レイテ島のあまりの自然の美しさが頭に入ってきて、その中で人間だけが泥んこになって、ぐちゃぐちゃになっているというのが強かった。それと、田村が自分と全く同じ、本来戦争に行きたくない人が、正直に語っている感じが凄く共感できたと話す。

今回は、塚本監督の映画から後半を見ていく。 文章化できてません、すみません。

飢餓が極限に達しつつある田村。倒れた自分に何か(銃口)が向けられているのに気づく。
「あっ、やっぱりおまえか」
それは、野戦病院で出会った永倉だった。助けられた田村は、永倉にあるものを食べさせられる。
「猿の肉だ。この間撃ったやつを干しといたんだ」
安田と永倉は、猿を獲ることで生き延びてきたという。
「行ってくる、おまえはここにいろ」と言って永倉は行く。
そして、田村の持っていた手榴弾を手にすると、安田の態度が豹変する。
「返せよ」
バーンと大きな銃声が。
「やった!猿だ!」
そして、田村は猿の正体を知る。田村は手榴弾を手に投げようとする。
「よせよせ、わかった」
そして、3人の関係は破局的な結末を迎える・・     

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スタジオでの解説・・
‘持ちつ 持たれつ’ の関係が ‘食うか 食われるか’ に変わる。銃口を向けてる永倉の顔が、前半とは別人。本来、逞しく成長するっていいことだが、戦場でそうなるのは、人の肉を食うみたいな、どんな悪いことをしてでも自分が生き残るというのが逞しいとなっていく。手榴弾が爆発してこそげ落ちた田村の肩の肉片を、自身が食べるシーンは
凄い。自分の肉だから迷わず食べれる。

猿の正体がわかった衝撃的なシーンについて。
前回、田村が辿り着いた境地、死んだものは食べていいんだという、むしろ、生きているもの(花や植物)を食べる方が罪深いという戦場での宗教を発明するところでこの物語が終わっていたら、魂の救済的なテーマの小説としてわりと美談の話。しかし、そのあとも続きがある。仲間を殺して食べているんだということがわかり、一旦獲得したと思われる倫理に、さらに、試練を与えることをやっている。それが、レイテ島の現実だったと。

塚本監督曰く、自分は原作に忠実に描いたつもりだが、市川崑監督の映画「野火」では、田村が人肉を食べようとすると歯がボロボロになって食べられないという設定になっているよう。市川監督の映画は、戦後間もなくだったので、そのシーンが生々し過ぎるから食べさせたくなかったという想いがあったのではと。だから、食べないというところで終わる。戦争って、英雄みたいに描かれるときがあるが、そんなもんじゃない、若い人が自分の肉体を、いろんなかたちで壊して死んでいくものなんだ、ということがはっきりわからないと。それで、自分は生々しく撮った。

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映画という時間的な制約上、ここは使えなかったというところは?
なるべく原作に忠実に、とは思っていたが、宗教の問題がかなり大きく描かれていて、これを丸ごと失くしたとしても大丈夫かなと。あとは、小説を読んで感じた自然の物凄い美しい様となんで人間がこんなにとんでもないことになってしまったんだろう、という対比もくっきり描いた方がいいだろうと思った。

島田氏は、塚本監督が信仰の問題を描こうとする代わりに、徹底した自然描写をするところをすごく高評価する。田村一等兵は、決して、キリスト教のコンテクストの中でこの経験をしているのではない、異端者の側から信仰や神の問題を考えるということが「野火」の核にある。バールーフ・デ・スピノザ(オランダの哲学者 著書『エチカ』『神学・政治論』など)という哲学者を例に挙げると、彼はユダヤ人、あの時代、キリスト教改宗にも応じず、ユダヤ教にも入らない、いわばどっちつかずで、異端的な立場で神を考察した。その信論というのが、ほぼ、‘ 神=自然 ’。ここで言う自然というのは、田村の周りに広がるジャングルの自然でもあり、あるいは、状況によって行動が変わってしまう人間の本性という自然であり、あるいは、あらゆる出来事の偶然の積み重ねらよってある方向に向かわされてしまう運命的なメカニズム、それを出来るかぎり緻密に考察すると、それを信仰の問題として捉えている。そういう意味で、特定宗教の教義にかなうような形で倫理の問題を考えたというのではなく、それを超えて極限状況の中で、人がどのように神を発見するのか、運命を考察するのか、これを描いたという意味では、もっと普遍的なものに辿り着いた。

 

伊集院さんが、前回の ‘私を食べていいわよ’ という花とか擬人化のような植物の描写あたりは神がかってると思ったんですけど、と言うと、島田氏は、そこは単なるビジュアルイメージとして強烈でしょ、この田村も、そういう強烈な記憶とか体験は映像として捉えている、多分塚本監督が映画化しようとしたときに、田村がリアルに感じた映像を捉えることを最大の目標にしてたんだと思いますが、いかがですか?と、塚本監督にふる。監督は、(わかって頂いて)有難うございます、と頭を下げる。

 

さて、「野火」の中で、田村が不思議な火を目撃する。

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スタジオでの解説・・
塚本監督は、番組出演にあたって再度読み返してみたら、小説の中の大事なポイントに「火」の章があることに気づいたという。田村が理性的に動いているところから、これからもう(人肉を)食べていく可能性が十分ある、スイッチが変わる丁度境目のところに、「火」の章が。「火」に対して、怖れ怒っていたとあり、非常にシンボリックなものであると思うが、人間の中にある欲望や動物の本能の強い「火」。この「野火」というタイトルは、生活上の火もあるが、やっぱり、自分の中にある戦争へ向かってしまう
かもしれない「火」でもあるのだろう、というのが浮かびあがってきたと話す。

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伊集院さんは、僕が知りたいのは、戦争のときはテンションが上がるのか?それを聞かないとリアリティーがない、と尋ねると・・

ある兵隊さんの手記だと、日本では本当に優しいお父さんが、戦場では鬼のようになる、きっかけは、上官に捕虜を刺してみろと言われ、刺せない、刺せないと心中では思っているけど、自分が殺されてしまうので仕方なく刺すと、その時に嫌悪感ではなく充実感が体中をどーんと走ったとあった、そうしたら、もう戦場では松永のようになる、それが戦場っていうことだと思う、と塚本監督は話す。誰もが攻撃本能、攻撃衝動を持っている、それをどれだけ制御できるかが問われている。

島田氏は「野火」について、映像の中に戦争の記憶が凝縮されていると言う。その記憶はフラッシュバックする。戦争は、戦いが終わったら終わりじゃない、生き延びた兵士が生還する、心的外傷はもの凄いと思う、田村も復員後精神病院に入院する。個人的戦争がずっと続く。本当に傷が深い人は戦争のことは人に語れなかった、ところが、大岡氏は、「野火」や「レイテ戦記」という形で、その体験記を、戦死していった人たちが何をしてどのように死んでいったか事実を集めて残すことをやった、と説明。

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復員した大岡氏は小説家としてデビュー。人気作家として多忙な日々を送っていた。そんな中、あるニュースに衝撃を受ける。それは、フィリピンに放置されていた遺骨の収集をするため船が出航するというもの。大岡氏は、戦死した仲間たちに向けて詩を書いた。

  ・・・(略)
  あんな山の中の骨まで どうせ届きはしないが、
  形式的でもみんな家へ帰れるんだ
  帰るのは 帰らないよりましだ
  そう思ってみんな喜んでくれ
  家へ帰って 大威張りで仏壇へ座れ
  そこでひとつ 頼みがある
  ひとつ 化けて出てくれ
  あれから13年 
  あんなひどい目に遭わしておきながら
  また兵隊なんて
  嫌な商売をつくろうとしているやつのところに
  化けて出てやってくれ

その9年後、大岡氏は、日米の膨大な資料を調査し、「レイテ戦記」を書き始める。レイテ島で兵隊たちはなぜ死ななければならなかったのか、その事実の全てを明らかにしようとした。晩年、ある番組で大岡氏は、戦争の記憶が薄れてきた世代に向けて・・ 
  
  みんなが楽に暮らせるなら忘れちゃって・・
  とがめようとは思わないし・・
  まあ、そういうもんなんですよ・・
  死んだ人間も、これでいいと思ってるんだと思うけど
  ただ、このまま、またひどいことになっていくんじゃ
  彼等も・・レイテだけで8万人死んでるからね・・
  浮かばれない
  政府が勝手なことをするのに
  NO!というのが文学者の役目であって、
  俺が言うねー!ってなる  ハハッ

この言葉を聞いて島田氏は、身の引き締まる思いですね、と答える。さらに、自分の責任ですね、自分が生きて帰ってきたことの、それを果たさなければならないという想いですねと言う。

 

最後に・・この小説が書かれたのは昭和26年、朝鮮戦争を背景に、アメリカの要求で日本の再軍備が議論されていた時だった。

「野火」の中からこんな一節を紹介してお別れ。

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                           (完)

私、今回の番組内でほんの一部だけですが映画を拝見しまして、とても全編通して観続ける勇気がございません。原作に忠実に描かれているということ、そして、大岡氏が自らの体験やもと兵士の証言、資料をもとに書かれたということ、それらを想うと辛くて。 大岡氏が番組のインタビューでお答えになっていた “政府が勝手なことをするのにNO!というのが文学者の役目であって、俺が言うねー!ってなる” のお言葉は、とても重いですね。そして、“みんなが楽に暮らせるなら忘れちゃって・・とがめようとは思わないし・・まあ、そういうもんなんですよ・・死んだ人間も、これでいいと思ってるんだと思うけど・・” のお言葉には、今さら・・何か言いようのない・・諦念のような響きを感じました。のほほんと暮らしている自分が、ああだこうだと言うのもどうかと思われます、ただこうして見聞きさせて貰うことだけでも良しとして頂きたく存じます。

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日々感謝です。