今日も、生涯の一日なり

自分軸で生きると決め早期退職した50代独女のつぶやき

Eテレ「100分de名著 -野火- 第1回〜落伍者の自由〜」を観て。

こんにちわ、SUMIKICHIです。
すっかりレギュラー視聴するようになったEテレ「100分de名著」。今月は大岡昇平の「野火」。太平洋戦争末期、絶望的な状況に置かれた一兵士が直面した戦争の現実と、孤独の中で揺れ動く心理を克明に描きだした作品。戦後文学の最高傑作とも称され、二度にわたる映画化を果たすなど、現代の私たちにも「戦争とは何か」を問い続けている。番組では、作家・島田雅彦さんを講師に迎え、「野火」を現代の視点から読み解く。第1回は、大岡昇平の人となり、「野火」の執筆背景などにも言及しながら、戦場を巡る一人の男の彷徨の意味を読み解いていく、という内容。

お恥ずかしい話ですが、私、読んでいませんので、ざっくり備忘録しときましょ。

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島田さんは、開口一番に‘戦争には負けたけれども、文学では勝つのだという気概を持って書いた作品’だと評する。では、まず、大岡昇平さんの基本情報から。

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37歳のときから、小林秀雄さんに勧められ小説を書き始める。
「野火」についてはこちら。

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レイテ島は、出征した兵士の97%が戦死。大量死のあと、文学に何が残るのかということを厳しく自問して、捕虜収容所などで日本兵からいろんな証言を聞き出しフィクションとしてまとめたもの。

 

では、小説の冒頭部分から・・

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小説「野火」の舞台は太平洋戦争末期のフィリピン・レイテ島。日本兵の戦死者8万人というおびただしい犠牲を出した悲劇の地のひとつ。輸送船が狙い撃ちされ、補給が途絶えたレイテ島の日本軍、米軍も上陸し、もはや戦える状況ではなかった。そんな中、主人公・田村一等兵は、持病の肺病が悪化し、病院からも中隊からも見放されて、いたずらにその間を往復させられていた。

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病院までの食糧として差し出されたのは、わずか六本の小さな芋だった。仲間に別れを告げ、出発した田村。緑の原野の先にある病院に向かう中、彼は、意外な感情を抱く。

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スタジオでの解説・・・
田村はどんな人物?
大岡先生を彷彿とさせる、部隊の中では圧倒的なインテリだが、中年、しかも一等兵だから下の方。下士官には自分よりも若い人がいて、そこで戦力外通告を受けて、最悪死ぬんだよ、自決するんだよと追いつめられていく。しかし、そうなるまでには少し時間がある。わからずやの部隊から追い出されることで、やっとひとりになれた、だからその時間を自由に使うのは勝手という状況になる。

伊集院さんは、僕は学歴社会から早くにドロップアウトしてて、高校でもう出席日数が足りないから来ても無駄だよと言われた帰り道、学校に行く義務からは解放されたけど、別に前向きな何かがあるわけじゃない、みたいな感じと同じですかね?と話す。

結局、田村は何もやることが無くなってしまったので、突然自然観察を始める。初めて見るこの圧倒的な熱帯での自然を前にして、ジャングル紀行みたいな、しかも非常に分析的だし、ときに詩的な。現実逃避でもあり、いろんな感情が混ざった自然観察。

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同じような極限状況にあった人の体験記録として、V・E・フランクルという人が「夜と霧」の中で、ある強制収容所に収容されたユダヤ人の女性の話として、「こんなひどい目に遭わせてくれた運命に感謝しますわ」と言ったことが綴られている。自分は甘やかされて育ったけども、こういう場所に入れられたことで初めてものを考えたとか。あるいは、花の咲いている樹木と話をするという。それを聞いた人は、この女性、ちょっとヘンかなと思ったらしいが、フランクルはこう考える。内面的な拠り所がある人は生き延びやすいと。一見非常事態で、そんな詩とか文学とか言ってんじゃないよ、と思うかもしれないが、ある意味、ホモサピエンスだけが生き延びてきた理由と通じるものがあると思う、と島田さんは話す。  

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田村は他に、孤独に死を意識しながらジャングルを歩いているときに、海辺に出て、‘ここにホテルを建てたら流行そうだ’とか夜になって、ヤシの茂みを見上げながら過去に付き合っていた女を思い出したりしている。絶望的な状況を一瞬忘れるような何かを想像出来るか、出来ればだいぶ気分は楽になったり、休息になったり、発想の転換が出来たりするかもしれない。軸を変えることで生き延びる術を考えてるみたいな。

 

そうした中、田村が見るのは野火・・・

田村は、彼の行く先に一条の煙が上がっているのを目にする。

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ただの野焼きか、それともゲリラののろしか、その後も田村の前には、野火がたびたび現れた。それが次第に気がかりとなっていく。

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スタジオでの解説・・
火の煙っていうのは、そこで人が何らかの煮炊きをしていたりする可能性がある。そこに行けば、食糧が手に入る可能性もある。但し、あそこに日本兵がいるぞ!というのろはかも知れないし、全くひとりで楽園を歩いているわけじゃない、そこには他者の存在を絶えず意識していなきゃいけない、避けるべきか近づくべきか、野火が何らかの逡巡を田村に与える。

田村は20日間位ひとりで彷徨うが、その後にようやく友軍の兵士と会うことになり、やっぱり自分は人恋しかったんだなと認めている。野火の象徴の下にいろんな出来事が隠されている。

 

この後どうなる?
病院に辿り着く。外には治療してもらえない人たちがたむろしている。翌日明け方、病院が砲撃されるという事態に。突然の砲撃に散り散りになって逃げ惑う兵隊や軍医たち。しかし、それを田村は一歩引いた思いで見ていた。

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           ※お詫び 上左から4行目 〜私自身の孤独と絶望〜の間違いです

田村は、幾日も丘陵地帯を彷徨う。その中で考えたのは自らの死。

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また、ある夜は

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スタジオでの解説・・
微妙な距離が現実と私の間に開いている、砲撃を受けて逃げ惑い死んでしまう同胞と自分は重なっている、ざまあみろと思って見ているというよりは、ああやって逃げ惑ってるのが自分じゃないっていうのがおかしくて笑える、というような感覚、その一方で、物凄く自分を他人事のようにも見てる。暗い好奇心とは、地獄を観光してやろう的な感覚。それがいつしか田村の心の中に、ユーモアと呼ぶしかないような感覚となって現れるということではないのか、とのこと。病院に入れてもらえてたら砲撃で死んでいたかもしれない、これは笑うしかない。

この死をどう定義するのか、死について考察し続ける。逆に、そのことによって生かされているんじゃないのか。

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精神分析学者 S・フロイトは「死の欲動」という概念を提唱する。死に向かおうとする無意識の衝動。‘死にたい’という願望ではなく、限りなく死に接近していきたいという欲求、そういう本能があるのではないかと。

まさに知識人である田村が、極限状況の中では、実質的に自分は死んでるという認識までは接近している、それでもまだ探求している。

伊集院さんは、凄いのが、自分は死んでるんだから、自ら自分を殺すことはないんだという結論で、ちょっと可笑しみがあって、なんか魅力的なんだよな、ここ、と話す。

島田さんは、ああいう極限状況をなんで俺は生きてこれちゃったんだろうか、ということに対して大岡さん自身が疑問だったと思う、ただの偶然かもしれない、だもその偶然も様々な要因が複雑に絡まりあった結果であった、ともかく結果だけが自分に与えられた、そのことを様々なカタチで検証した作品だと考えてあげるべき、と語る。

これから、自分は死んでいると思ったところからが長い、らしい。   (完)

    

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 なんと申し上げてよいのやら、腹の底から何か得体の知れない感情がこみあげてきそうな内容でございますね。昔は、このような戦争ものの小説をよく読んでいたような気がしますが、久しぶりにレイテ島などの名称を聞くと、口が重くなってしまいます。ですのに、番組は観たいという、この矛盾。

“死”と一緒に密林を彷徨う、砲撃を目撃、豊饒な大自然、自らの死に際のイメージ・・そして最後の“自分は既にこの世の人ではない、従って自ら殺すには当らない、と確信して眠りに落ちた”。私の癌体験とは比べものにならないほどの、吐きそうなほどの孤独と恐怖。哀しいかな、想像すること自体がおこがましいですね。

それと、フィリピンの大自然に触れて、“私は死の前にこうして生の氾濫を見せてくれた偶然に感謝した。これまでの私の半生に少しも満足していなかったが、実は私は運命に恵まれていたのではなかったか、という考えが閃いた”のくだりは、自分なりにですが理解できます、と言わせて下さいまし。

そうそう、“死ねば私の意識はたしかに無となるに違いないが、肉体はこの宇宙という大物質に溶け込んで、存在するのを止めないであろう。私はいつまでも生きるであろう”という死後の人間の在り様を、宗教的にではなく、科学的に分析しているところは、妙に説得力があるなぁーと感じました。この先、どんどん辛く悲惨になって行きそうですが最後まで見届けようと思う次第です。

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日々感謝です。