Eテレ「100分de名著 維摩経〜第4回 あらゆる枠組みを超えよ!〜」を観て。苦難の世俗を生きろ!かぁ・・。
こんにちわ、SUMIKICHIです。
すっかりレギュラー視聴するようになったEテレ「100分de名著」。今月は「維摩経」。聖徳太子によって日本で初めて解説された仏典の一つ。
かの文豪・武者小路実篤も「維摩経を読んで偉大な知己に逢ったような気がした」と述べるなど、日本人に親しまれてきた経典です。しかし、現代人には、意外にその内容は知られていません。第4回は、既存の枠組みにとらわれず、解体、再構築を繰り返しながら融通無碍に生き抜く自由なあり方を維摩から学ぶ、というもの。
指南役は、如来時住職・相愛大学教授の釈徹宗さん。著書「なりきる すてる ととのえる」「お世話され上手」で知られる宗教学者・僧侶。
お恥ずかしながら、聞き馴染みのない「維摩経」。ざっくり(としか言いようがない)備忘録しときましょ。
最終回は、中巻の第9章“入不二法門品”から。
“不二”は“2つではない”、二項対立を解体した世界、悟りの世界へと入る道の章、と考えれば良い。“不二法門”について、維摩が並み居る菩薩たちに質問し、30人以上の菩薩たちが次々と答えていく場面。
維摩の問いに菩薩たちは、“対象と主観”“聖と俗”など、様々な例を挙げながら、
それを解体した世界こそ“不二の法門”だと答える。
例えば、徳頂菩薩は、
仏教では、“死”があるのは“生じた”からと考える。大きな生命の流れで考えれば、結び目があって、またほどけて、を繰り返している、そういう目で生命を捉えれば、生まれもしなければ、亡くなりもしないと。この場面で伝えたいのは、“聖”と“世俗”は別々ではないということ、ここにこの経典の主眼がある。
“善と悪”を区別するのは、私たちの日常では非常に大事だと思うが、どうしてこの二項対立はダメなのか?確かに、善悪の区別がないと社会適応できないが、そこにある種の罠がある。例えば、町のゴミ拾いのボランティアをしている人がいて、それ自体はとてもりっぱだが、そのうち、ゴミのボイ捨てをする人に腹が立ち、怒りさえ覚えてくるだろう、これを突き詰めていくと、ゴミを捨てる人と拾う人の二項対立がおこる、世界を二分して考えるのが原理主義、信仰のある人とない人に二分すると世界への認識が歪む、とのこと。
続いて、珠頂王菩薩がこんなことを言う。
これまで維摩が説いてきた大乗仏教と初期仏教の対立すら否定。いわば、維摩経自体の立ち位置すら外そうとする言葉。
維摩は30人以上の菩薩たちから意見を聞いたあと、ついに文殊菩薩にも言う。
ここは、なんといっても維摩経の有名な場面。
維摩が沈黙を示したことで、みなが雷に打たれたように“不二の法門”について悟るという場面。宗教というものは、限界まで知性と学びで行くけれども、そこから先行き着けないところまで行くと、黙って飛ぶしかない、ということがある。
では、最後の下巻へ。第10章“香積仏品”。
香りに満ちた仏の国で、香りで教えを説く衆香国の菩薩たちが維摩の所へ来る。仏の国は一つではない?我々のこの世界にお釈迦さまは登場して下さったが、パラレルワールドのように、様々な次元があって、様々な仏の国で、様々な仏が教えを説いている、そういう思想が大乗仏教の大きな特徴のひとつ。
話を戻して、衆香国の菩薩たちは、自分たちの国では香りで教えを説いているが、そちらはどうなんですか、と維摩に問うと・・
これ、この経典の根っこの部分。普通の暮らしが理想だが、出来ないなら出家するしかないという思想。
伊集院さんは、大事なことは何ですか?って話だと思うが、有り難いお経を聞くと悟れるんだって時に、じゃあ、耳が聞こえない人は悟れないのか、この香りで満ちてる国の人たちが香りでいろんな教えを聞けるならば、大事なことはそこじゃないってことになりますね、と言う。
指南役は、香り・音・光など、あらゆるものが仏教の法(真理)を説く、求める心さえあれば、大きく言えば、仏教の構造自体がひっくり返ってる話だと解説。
続く、第11章“菩薩行品”。
無事に維摩のお見舞いを済ませ、第9章“入不二法門品”も聞けた文殊菩薩一行は、釈迦のもとへ戻って来る。素晴らしい香りを放ちながら戻ってきた文殊菩薩たちを見て、釈迦のもとに残っていた阿難は、香りの意味に気づき感嘆の声をあげる。
釈迦は阿難に応えて言う。
さらに、釈迦の口から維摩の正体が明かされる。
なんと、維摩は仏国土からやってきた人だったのだ。‘妙喜国’とは、西方にある阿弥陀仏の極楽浄土に対し、東方にある阿閦仏の仏国土。
伊集院さんは、やはりただ者ではなかった、ひねくれ者でもなくその国での素直な意見だったのかもと驚く。
異世界から来た人物の話は経典に多い。維摩の娘が登場する経典『月上女経』もある。光の中から生まれた絶世の美女で、次から次へと来る求婚者に対して難題をふっかけて断るという、『竹取物語』の源流だと言われている。
そして、第13章“法供養品”。仏道修行で拠りどころとなる“法四依”が釈迦によって語られる。
①言葉に振り回されない
②本質を見抜く
③語る人に惑わされない
④経典の枝葉末節に捉われない
現代の我々に特に大切なのは、①と②ではないか。情報過多の現代、時間がかかっても自分で咀嚼して身につけよう。
指南役は、学生たちにも、次から次へと情報を消費しているタイプと少なくても自分なりに情報を消化するタイプがいて、後者の方が失敗した時に立ち上がる力が強いと話す。
ついに最終章の第14章“嘱累品”。“嘱累”とは、釈迦が教えを人に託すこと。集まった弟子や菩薩たちを前に、釈迦は最後にこう語る。
続いて、仏道を歩む者の在り方や躓きやすい事柄などを説いた。次の仏陀となる弥勒菩薩を始め、一同は釈迦亡き後もこの教えを正しく守り抜いていくことを誓う。フィナーレを迎えた維摩経、最後に阿難が釈迦に問う。この教えを何と名づけましょうと。釈迦は答える。
最後は釈迦の言葉で終わるっていうのは経典らしいと伊集院さんは言う。指南役は、一応仏教経典の様式に沿っており、お坊さんの間で、法話や説教をする極意として・・『はじめしんみり なかおかしく おわりとうとく』という言葉があり、そうすればみなさんに聞いてもらえる。まるでその通りの経典。
伊集院さんは、維摩経を振り返って、在家の在り方を教えられたと言う。例えば、研究者の人が、世の中のことなんて一切関係なく、籠ってひたすら研究だけしていたい!というと、それも一つの在り方だけど、社会生活で見た事が、あっ、これって自分が研究してることとつながるんじゃない?と、より自分の大切にしている世界に厚みを与えたりする気がすると。
指南役は、これはりっぱなお仕事で、これはつまらない行為っていう枠をはずしてみると、世界が違って見えたりする、何回も出てきたが、世俗の中に紛れてこそ悟りがあると話す。さらに、どこにも逃げ場がないんだ!っていう気がする、今を引きうけて・・
というメッセージだと思うと。また、仏教が説くように、自分という枠が強いほど我々は苦しむ、自分というものを守るために、いつもバリアを張っている、それを外すために、人の世話をしたり、されたりするっていうことを考えてみようじゃないかって提言している。
“お世話上手 お世話され上手”という言葉を使って、指南役は高齢者の介護施設を運営しているNPO法人代表をしている。そこで気づいたことがあるよう。ある年代から急にお世話されるのが苦手な世代があることに。だんだん都市化するにつれて、人に迷惑かけたくない、迷惑をかけなければ自由という価値観は美徳ではあるが、傲慢でもあると言う。自分というバリアをおろして、人のお世話になるのに達者になっていかなければならないのでは、そして、この維摩経が説くように、次々と枠を解体・再構築して生きていけっていうのは我々にとって大きな知見・ヒントじゃないかと締めくくる。
伊集院さんの感想で・・僕は、貸し借りのない人生がいいんだと思いがち、まあ、それには限界があって、最後の下りはずしっとくるお話しで・・とあり、全くの同感でございます。私、現在、身内の問題で、ここのところずっと思案中。自分という枠が強すぎて、返って自分を苦しめている、人のお世話をする、誰にも迷惑かけなければ自分の自由でしょって価値観は傲慢でもある、などなど、痛いところを突かれてます。
“苦難の世俗を生きろ”、逃げ場はない、ですかぁ、そうですよねぇ、そうハッキリ言われますと、潔しではありますが、重い腰を上げるといいますか、よし!と全てを引きうける覚悟をするには時間がかかりますね。私、面倒臭がりで諦めが早いので、ずーっと考えても堂々めぐりですと、やがてマイナス思考パワーに疲れて、まあ、命までは取られまいと開き直って受け止めてしまうんですよねぇ。貧乏性です。二項対立をなくす不二の法門とか空の思想というより、“虚”です、“虚”。生きることは苦行ですよねぇ。維摩経・・とても興味深くて楽しゅうございましたが、身内問題と重なってしまい、リアル過ぎてずしっときました。ふぅ。
日々感謝です。