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自分軸で生きると決め早期退職した50代独女のつぶやき

Eテレ「100分de名著 維摩経〜第2回 “得意分野”こそ疑え〜」を観て。“慈悲”って厳しっ。

こんにちわ、SUMIKICHIです。
すっかりレギュラー視聴するようになったEテレ「100分de名著」。今月は「維摩経」。聖徳太子によって日本で初めて解説された仏典の一つ。かの文豪・武者小路実篤も「維摩経を読んで偉大な知己に逢ったような気がした」と述べるなど、日本人に親しまれてきた経典です。しかし、現代人には、意外にその内容は知られていません。

第2回は、維摩と釈迦十大弟子や菩薩たちとの議論を通して、「得意分野」にこそ自分の弱点が潜んでいることや自分との向き合い方の極意を学んでいく、というもの。指南役は、如来時住職・相愛大学教授の釈徹宗さん。著書「なりきる すてる ととのえる」「お世話され上手」で知られる宗教学者・僧侶。

お恥ずかしながら、聞き馴染みのない「維摩経」。ざっくり(としか言いようがない)備忘録しときましょ。

 

今回は、「上巻 第3章 弟子品」から。維摩が病気だと察知した釈迦が、お見舞いに行くよう直弟子たちに依頼。

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後世の人たちが褒め称えたエピソード満載の10大弟子。普通は、はい、喜んで!と引き受けそうなものなのに、弟子たちは嫌がり断る。拒否するその理由から維摩の人物像が見えてくる。では、内容に・・

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尊敬する釈迦の頼みだったが、舎利弗は渋る。

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舎利弗が拒んだのは、以前維摩にやり込められたから。ある時、舎利弗が林の中で静かに瞑想していたら、維摩がやってきてこう言う。

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ちなみに、舎利弗は、仏弟子ナンバーワンの人なのに、この後もずっと‘狂言回し’のような損な役割りをして経典は進むらしい。

伊集院さんが、あなたが本当に座禅の名人ならば、瞑想しやすい環境やポーズで行うのは違いますよねぇー、むしろ、一般的な雑踏の中ででも心乱れないのならワンランク上ですけど、ってことですよね、と言うと、指南役は、図星ですね、と答える。ここで維摩が語っているのは、出家の概念自体を大きく変える、本当の出家ってそうなのか?というところ。

舎利弗に断られ、釈迦は目連に見舞いを頼む。が、辞退される。以前、街角で在家信者に仏法を説いていたら、維摩にこんなことを言われたから。

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ありのままの姿とは?自分の認識でゆがめているものを一旦横に置いて、物事の本質をきちっと見るということ。この場面では、目連は在家たちにお話をしているが、内容はまるで聖者の道、出家者の道のお話、維摩が聞いて、この人たちに言うべきことはそういうことじゃないんじゃないの、あなた(目連)は自分の‘枠組み’が出来上がってて、それを押し付けてるんじゃないですか?という指摘。

舎利弗と目連の二代仏弟子も、維摩固定観念を揺さぶられて歩みが進んでいく。

 

さて、次に頼むのは大迦葉。弟子というより釈迦より年上で親友のようなもの。大迦葉は、“頭陀行”に優れた人。頭陀行とは、自分の欲望を捨てる修行のこと。そのための手法のひとつに“乞食行”というのがあり、他者から食べ物を施して貰って食べるという行に秀でていた。が、この人も断る。

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‘食べないために食物を受け取る?受け取らないために受け取る?’

わけのわからない話になってきたが、指南役の解説によると・・例えば、相手と自分との境目がなければ、何のこだわりもなく食物が受け取れる、移行しただけ、それが理想の在り方なんじゃないか?そんなことを維摩は言いたかったのではと。さらに、維摩はこんなことを言う。

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あなたとわたし、施す側と施される側、その枠組みをよけてみると本当の乞食行になる、という維摩の問いかけ。

 

スタジオでは、維摩って物語の登場人物としてはちょっと嫌な奴だよね、身近にいたら友達になりたくないよね、と盛り上がる。しかし、指南役は、維摩とのやりとりを見て周りがハッと気づく、周りの人を導くために嫌な役割を果たしていると言う。そして、10大弟子の“得意分野”を揺さぶるところが面白い、“得意分野”じゃなければマイナーチェンジできるが、柱を折られたら一から再構築しかない、“得意分野”と“弱点”は表裏一体、維摩はそこに食い込んでいくが、考えてみれば、よっぽど相手のことを思わないとそんなことはしない、そういう意味では維摩の活動は“慈悲の実践”でもある、と解説。

この後もみんな断り続ける。例えば、説法上手な富楼那という人は・・

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説法が上手いがゆえに、相手を見ず、自分の構築したものを人に伝えようとする。自分と他者との関係の中で説法を再構築すべきと維摩は見た。

伊集院さんは、49歳にもなるとそれなりに若者からアドバイスを求められたりするが、えらそうに言ってても、自分が35歳のときに理解できるようなことだよね、20歳そこそこの奴に言ってる自分はなんなんだって思ったりしますね、と話す。

 

話を戻して、結局維摩はどうなる?

10人全員に断られ、今度は、釈迦は菩薩たちに声をかけ始める。

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弥勒菩薩は初期仏教から出てくる存在で、釈迦入滅後56億7000万年後に次のブッダとなることが約束された菩薩。弥勒菩薩にお願いすると、嫌だと言われる。仏が弟子の未来の成仏について予言することを“授記”というが、維摩は、“授記”っておかしくないですか?と言いだす。仏教は、‘今この瞬間しか世界は実在しない’という立場、だから、維摩弥勒菩薩に‘未来や過去にこだわりがあるのでは?’と揺さぶってくる。“授記”って大乗仏教の根幹をなすもの。維摩大乗仏教も揺さぶってくる。

 

で、なかなか見舞いが決まらないがどうなるの?第5章でようやく決まる。

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この経典のもう一人の主役と言っていい、文殊菩薩は智慧の象徴として信仰を集めた菩薩。“三人寄れば文殊の知恵(3人で考えれば すばらしい知恵が出る)”ということわざにもなっているほど。この菩薩なら維摩とわたりあえるかも。最初は嫌がるが、お釈迦さまのご依頼とあらば、ということで引き受ける。

文殊菩薩が見舞いに行くと知った弟子たちは、二人が話をしたら素晴らしい教えが聞けるに違いないと、一緒について行くことに。一方、維摩は、家族を外出させ、家具を片付け空っぽの部屋で寝て待っていた。そして、維摩は菩薩に来訪の御礼を述べた後、いきなり言う。

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文殊菩薩は少しも動じることなく答えた。

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続いて文殊菩薩維摩の病状を尋ねた。

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維摩は答える。

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ものごとの本当の姿を理解できないということ(痴)と自分でもコントロールできないほど次から次へと貪る心(有愛)、これに怒り(瞋恚)をたすと“三毒”といって、仏教では苦しみを生み出すビックスリーと考える。

維摩は、結局病院の原因は“慈悲の心”だと言う。“慈悲”といえば大乗仏教の中心、維摩は人々の痛みに自分の心と体をチューニングした結果、病気になったという。大乗仏教を学んだ宮沢賢治が「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない(農民芸術機論網要より)」と書いたことと同じ。

指南役は、大乗仏教の柱“慈悲と智慧”、智慧の象徴である文殊菩薩と慈悲の実践をしている維摩、この構成がしびれる、維摩経を作った人の意図を感じる見事な構成だと話す。さらに、物事の本質がわかって自分の苦悩を解体するだけでは仏道は進まない、他者の苦悩をシンクロさせて相手の痛みを自分の痛みとするところまで到達しなくてはと言う。

伊集院さんは、世間の人々が普通に罹る病気について、修行している人たちは自分が病気じゃないから普通がわからなくなっていて、健康の概念の話ばかりする、いやいやそうじゃなくて治療法とか教えてくれ、ってすれ違っている中で、維摩だけが、自分が自覚のある病人だと思う、と感想を話すと、指南役は逆に‘勉強になりました’と笑いながら返す。

次回は、維摩文殊菩薩がもっとぶっ飛んでいくそうだ。 (完)

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こうして備忘録してましても、自分で消化できていない個所が随所にございます。義務教育レベルの記憶しかなく系統だてて理解していませんので、もし最後まで目を通して下さった方がいましたら、なんのこっちゃ?かもしれません。すみません。しかし、自分ではそれも含めて楽しんではおります。

確かに、維摩の問いかけは鋭いですよね、現代の一般人の中にも、指摘したあたりが引っかかってる方、結構いるのではないかと思いますが。座禅にしても何にしても、修行は、俗世間の中、雑踏の中ででも行われて共存?できないものかなとか。もちろん、命を賭けた厳しい行を成し遂げてからの俗世間との共存ですれど。それにしても、いましたねぇ、元職場にも、的確に本質を突いてくる人って。いわゆる孤高の正論の人(維摩とは違った意味で)。皆、親しくなれないよねって言い合ってましたが、この言い合うコト自体、まだまだですね。他に想うコトたくさんありますが、まとまりませんし、低次元の想いだし、番組備忘録ですのでこの辺で。言い訳?

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日々感謝です。