今日も、生涯の一日なり

自分軸で生きると決め早期退職した50代独女のつぶやき

Eテレ「100分de名著 三国志・陳寿 第2回〜曹操 乱世のリーダーの条件〜」を観て。孤独だなぁ。

こんにちわ、SUMIKICHIです。
すっかりレギュラー視聴するようになったEテレ「100分de名著」。今月は、正史「三国志」。小説、漫画、アニメ、人形劇、ゲーム、そして映画と、1800年前の中国激動の歴史を描いた三国志は、世界中の人々を魅了してきた一大スペクタクル。この物語は「三国志演義」。しかし、実は、小説のもとになった歴史書がある。それが正史「三国志」、今月の名著。ざっくり備忘録しときましょ。

第2回は、曹操が実行した様々なアイデアの適否を読み解きながら乱世に生き残るリーダーの条件を探る、というもの。

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番組冒頭、渡邉先生は曹操のことを、ひと言でいうと‘突き抜けた才能の持ち主’、例えば、諸葛孔明がいなくても中国の歴史はあまり変わらないけど(先生は諸葛孔明がお好き)、曹操がいなかったら中国史が変わってしまうというほど圧倒的な力の持ち主(先生はあまりお好きじゃないみたい、ちなみに小説『三国志演義』では悪役扱い)だと語る。さらに、曹操の人物評価は“乱世の能臣”“乱世の姦雄”、と悪者なんだけど英雄、革新的な制度で“義”の基本を作ったと解説。

実は、その後の隋・唐の律令の基本にもつながっており、さらにはその律令を取り入れた日本も遣隋使や遣唐使を送ったりして関係が深いとのこと。

まずは、曹操がどのように勢力を拡大していったのか。

陳寿は、三国志の中で、曹操は“非常の人”“乱世の傑”、時代を超越した英雄だと書いている。いつの世も時代の先端を行く人って評価されにくい。曹操もそんな感じだったのかも。

 

曹操は、漢の時代にトップ官僚の家に育てられ、地方の役人からキャリアをスタートさせる。そこで猛政と呼ばれる徹底的に法律に基づいた統治を行った。法を犯した者は、杖でたたくなど厳しい罰を定めた。そして、朝廷で権力を握ろうとしていた董卓を倒すため、190年結成の反董卓連合軍に参加し、頭角を現す。

こんなエピソードがある。
連合軍は董卓軍を追いつめると、董卓は皇帝の献帝を連れて、首都・洛陽から長安へ逃走。強固な要塞のある長安にまで董卓を追撃するのはリスクが伴うと考えたリーダーの袁紹たち。戦いに疲れ、祝宴を繰り広げる。しかし、曹操はひとり、ここで董卓軍への追撃を主張。

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勇ましい曹操だが、賛同する人はほとんどない。曹操は数少ない兵を率いて董卓軍を追撃するが、圧倒的な武力の差で大敗。袁紹軍に吸収され、荒れ果てた兗州の統治を任される。しかし、無謀と思えるこの行動によって、曹操の評判が名士たちの間で急上昇。漢の復興のために戦い、捕らわれていた皇帝を救出しようとした曹操。それが、義にあふれる行動として評価されたのだ。結果的に、荀彧や郭嘉など傑出した名士たちが集まり、勢力を拡大するきったけとなった。

スタジオでの補足・・
漢時代は、仁とか徳などを尊重する儒教に基づく政治、軽い犯罪だと罰しない。それが後漢の支配の弛緩につながった。だから曹操は、きちんとした法制度を作り直して漢の支配の緩みを直そうとした。

また、少しの兵で大敗してしまったが、そもそも何の為に結成された軍なのかを考えた時、勝ち目がなくても漢のために戦う人を、儒教を学んだ名士たちは支持するのだ。勝てなくてもいい、戦わなければならない時がある、そこに曹操は挑んだ。

曹操は、実は戦いのプロ。
中国の兵法書孫子』に、ここはこう解釈するんだよと注釈をつけたのは曹操。我々が『孫子』を読む時は曹操の注釈に従って読んでいることになる。なので、戦いの分析はきちっと出来ていたにもかかわらず、戦いに行く、こういうところに、ビジョンがあり、長いスパンで物事をとらえるリーダーの資質を見ることができる。

 

曹操はこの後、画期的な制度を取り入れ勢力を拡大していく。
主な政策は3つあった。

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①兵力の獲得
曹操が支配した兗州は、黄巾の乱で荒れ果てた土地。兵士もわずかしかいなかった。兵力拡大のため曹操が目をつけたのが、なんと黄巾の乱の残党兵。彼らは兗州の東・青州に逃げ延び、再び力をつけ曹操に攻撃をしかけてきたが、曹操は何度も打ち破る。そして、最終的に残党兵30万あまりと100万人の民衆を降伏させた。しかも、残党兵を青州兵と名付け、曹操軍の主力にした。普通は降伏した兵士は殺されたり、解散されたりするものだが、彼らが信じていた道教までも丸ごと受け入れた。彼らの価値観までも受け入れることで曹操は、兵士や民衆の信頼を得た。

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屯田制の実施
曹操黄巾の乱で荒れ果てた土地に農民を戻そうと考えた。流民となっていた農民に農地を与え、道具と牛や馬を貸出し、農民として定着させ生活を維持できるようにした。屯田制によって安定した税を得ることができるようになり、国力を高めた。ちなみに、そもそも屯田制とは、軍隊が戦いのないときに耕したところ。ところが、曹操は一般人に、しかも辺境地ではなく拠点に作った(この場合、拠点となる土地が荒れ果てていた)。この屯田制が、隋・唐の均田制になり、日本に入ってきて班田収授の法に、これがまた隋・唐を経由して日本に入り租庸調の原型になる・・(ややこしいけど、習ったなぁ、この用語)。

話を戻して・・そうしているうち、ある時、曹操は感情的になって失敗をおかす。曹操に恨みを持つ徐州の武将に父親を殺され、激怒した曹操は徐州に侵攻、武将だけでなく民衆も虐殺してしまった。人望を失くしてしまった曹操は、これを挽回する策を思いつく。それが3つ目。

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献帝の擁立
漢の最後の皇帝・献帝を保護し、擁立した。これによって曹操は、軍を動かすことの大義名分を得ただけでなく、朝廷内を意のままに操ることができるようになる。こうして、曹操は徐州の虐殺で失われた信望を回復させた。

 

それから、画期的な政策で権力を強める曹操は、一大勢力袁紹たちに向かっていく。

時は200年、群雄割拠の中から抜き出てきた曹操袁紹が、黄河をはさんで激突。天下分け目の決戦“官渡の戦い”。袁紹軍10万に対して、わずか1万の曹操軍。圧倒的に袁紹軍が有利。広大な黄河、どのタイミングで渡り攻撃をしかけるかが重要なカギ。曹操は軍を二つに分け、運動戦という簡単に言うと動き回る戦術で、袁紹軍の先発隊を破った。しかし、10万の袁紹軍はその後も曹操軍を攻めた。このままでは負けるかもしれないと弱気になる曹操を、名士・荀彧が激励する。

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チャンスはすぐにやってきた。袁紹軍が兵糧基地を烏巣という場所に置いたという情報が、袁紹に離反した軍師・許攸から曹操のもとに入る。部下たちはこの情報を疑ったが、曹操は食糧を奪うチャンスであると決断。自ら軍を率いて烏巣へ向かう。烏巣で警備をしていたのは、淳于瓊率いるわずかな軍だけだった。

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曹操はこの戦いで勝利。これがきっかけで袁紹は敗退。その後、袁紹が病死すると、曹操袁紹軍を破りその領土を獲得する。

スタジオでの補足・・
伊集院さんは、僕(ゲームはしますけど)、三国志ゲームはしないけど、おそらくこの場面、ゲームにしたら面白いんだろうなーと思いますねと言う。

先生は、“赤壁の戦い”の方が有名ですが、この“官渡の戦い”の方が重要、曹操の覇権が決定的になった戦いだから、と話す。さらに、ただ、後半は、負けてもおかしくないスレスレの戦いだっただろう、食料基地の情報が勝敗を喫したところ、スパイが行き来する中で、部下たちは情報を疑うが、曹操は情報源相手と会って、自分の目で確かめているはず、結局“決断力”と人の真否を見抜く“判断力”、その部分で勝負が分かれたとも言える、と解説。

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曹操は、他にも画期的な取り組みをした。衰退する漢をこの先どうしていくのか、革新的な取り組みが急務、儒教やその教えを支えとする名士たちを変えていかねばならぬと考え、“文学”というものを出して行く。この“文学”を人事(登用制度)の基準にする。唐の時代になると詩を作る科挙というのがあるが、曹操の文学サロンから始まったもので、作詩を試験科目にする。新しい価値観の創出に基づいて行われる試験だ。

伊集院さんは、凄い“才”の人ですね、と感嘆。様々なビジョンを出しっ放しではなく、一つずつ政策として実行する。曹操の、苦難に対する対応力から打ち出される“才”、リーダーの中核に置かれるもの・・・だが、先生は“才”だけでは足りないんですよね、部下は置き去りですから、曹操がやろうとしていたことを誰がどれだけ把握していたかというと・・疑問、と話す。

これから、その曹操に欠けているものを持っている人たちが出てくる。

   【魏】 曹操 「才」
   【呉】 孫権 「信」
   【蜀】 劉備 「情」

それは、次回で、とのこと。

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曹操孫権劉備・・お名前は存じ上げております、映画も観ましたし。なんだか懐かしい。“班田収授の法”とか“律令制度”、“遣隋使・遣唐使”、なんといっても“租庸調”という歴史用語。日常生活で「ねぇねぇ、昨日、租庸調がさぁー」なんて出てくることありませんし、かといって全く忘れてるわけでもないので、「ああ、あった、あった、そんな用語!」と、当時の授業風景なんかもぼんやり浮かんできたりして嬉しくなりますね。なるほどね、こんな風につながってたんですねぇ、何を学んでいたのか、ホントに・・苦笑い。こんな感想しか綴れない自分はどうなんでしょうね。現在の私には、リーダーの条件ってあまり関係がないからなぁ。

そうそう、少し硬い話ですが、下降線をたどる世の中を、社風を、流れを変えたいとき、決して私利私欲のためではないのに悪者扱いされるリーダーっていますよね。孤独です。精神的にタフなんでしょ、と言ってしまえばそれまでですが、歴史はあとから評価されるし、実際に本人を見ることも出来ませんので、自分の中で乏しい想像力を働かせて色々物想うしかないんですよね。元いた会社でも、色んなタイプの上司や役員さんがいらっしゃり、偉大な歴史の中のミニチュア版のような戦いが繰り広げられてました。どこにもある風景ですよね。この番組でいうところの儒教タイプの仕組みは、だいたい撃沈するんですよね。名士は時に、策士となり、あまり褒め言葉では使われてなかった気がします。ああ、また魑魅魍魎とした組織風景を思い出してしまいました。が、今思いますと、それはそれで楽しかったのかなぁと思ったりもします。皆、自分の信じるやり方で事にあたっているんですものね。

この番組って、固くなった脳を耕してくれる良い道具(あっ、失礼)なのかも。

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日々感謝です。