Eテレ「100分de名著 人生論ノート・三木清 第2回〜自分を苦しめてしまうもの〜」を観て。言わなかった“責任”かぁ。
こんにちわ、SUMIKICHIです。
すっかりレギュラー視聴するようになったEテレ「100分de名著」。今月は、1937年に冒頭の一章が発表されて以来80年近くもロングセラーを続ける名著「人生論ノート」。第2回は、自分自身を傷つけてしまうマイナスの感情と上手につきあい、コントロールしていく方法を学んでいく、というもの。ざっくり備忘録しときましょ。
まずは、自分を苦しめるものとは、怒りや憎しみ、虚栄心、嫉妬、そういう生きることの妨げになるようなマイナスの感情。しかし、三木清は完全に否定はしていない。例えば、虚栄は人間そのものと言っているし、人間的だと。
では、そもそも虚栄心とは何なのか?
人間はみな生きる上で、不安や怖れを抱えている。そこから少しでも目をそむけるために、自分以上の自分を作りだそうとする。
自分をより高めたいという想いも虚栄心。一体、我々は虚栄とどのように付き合えば良いのか。三木は“創造”が鍵になると考えた。
いかにして虚栄を失くすことができるのか?
これまたなかなか難解なアプローチだと伊集院さんは言う。
三木はこの虚栄心と付き合うのに、3つの方法を提案している。
それぞれ補足すると・・
①仮面を被り続けて虚栄を演じ切る。一生仮面を被り続ければそれが本性になる。伊集院さんは、ピンとくることがあるようで、芸能活動している自分には芸名があり、仕事でその役割を演じているところがある、本名の自分にとって芸名の自分は、ある意味理想とする部分もあるし、人生の半分は芸名で生きている、嘘をついているのとは違ってますよね、と話す。
先生は、英語のパーソン(人間)はラテン語のペルソナ(仮面)をベースにしていて、いつの間にか仮面が仮面じゃなくなっていると説明。
②虚栄心を満足させるために、日々ささいな贅沢をする、例えばちょっとしたお洒落をするとか。要は小出しにしないとボロが出るし、少しずつならつき合える。そこそこの虚栄は必要。
③‘人生とはフィクションを作ること’だと言う。人というのは孤独ではいられない、ひとりでは生きていられない。人の目や評価を絶えず気にしている。そういう気持ちから作られる人生は虚栄。そうじゃない人生がある。他者からの評価ではなく、自分の意思で人生を創造していけば虚栄を駆逐でき自由になれる。虚栄というのは全てがダメというのではなく、今ある自分より上を目指す、そのために努力する、これは一般的には向上心。
次に、一番厄介な感情、“嫉妬”。
愛と嫉妬は似ている。それは、どんな情念よりも術策的で、はるかに持続的な点において。そのため他の情念よりも長続きして人間を苦しめる。愛があるからこそ想像力が働き、嫉妬が生まれる。さらに、嫉妬には次のような特徴がある。出歩いて家を守らない、常に多忙である、つまり嫉妬がさらに想像力を働かせて、私たちの心を忙しくしてしまうという。
夫の携帯を盗み見して浮気を疑うとか愛があるからこそ嫉妬する、無関心な人には嫉妬しない・・などとスタジオで盛り上がる。
では、「人生論ノート」に書かれている嫉妬の対象は・・
「芸人仲間がお互い、いつか売れたいとか言ってる間は嫉妬はなく、むしろ愛があるけど、誰かが頭ひとつ抜けだしたら嫉妬が生まれて、なんであれがいいんだとか言って相手を貶めようとする感じですね」と伊集院さんは言う。
先生は、人は、自分を高めようと建設的な努力をしないで、相手の価値を陥れようとする、それを‘平均化’という言葉で表わしている、と説明。さらに、今、社会全体が‘平均化’を求めようとする傾向がうる気がすると言う。
伊集院さんはここでもピンとくることがあるようで、「SNSにその傾向がありますよね、自分は幸せだと自慢して炎上、さらに進んで、自撮りして‘ブスで困ったちゃう’てコメントを添える、それに対して、自信無い奴がアップするわけないだろとまた炎上する、そんな感じ?」と言う。
問題は、どうやったら失くせるか?
ひと言でいえば、“個性を認める”こと。自信が無いから嫉妬する、他人のようになりたいと思う、まず、この自分を認めることから始めるしかない、自分を認めることで他者も認めることができる、そして、あんな人になりたいと嫉妬して、仮になれたとする、そのときには自分ではなくなる、その人になるのだ、そういう風に諦めるしかない、“自分を変えようとする努力を止めたときに変われている”といっていい、と先生は解説。
続いては、“怒り”。
“怒り”について三木は、人間に必要だと肯定する一方、“憎しみ”については激しく否定。
先生の解説によると・・・
社会の利害関係の中で生まれる“怒り”も確かにあるし、いろんな不正が満ちていて、それらに“怒り”を覚えるのは必要。三木自身も“公慣”という言葉を使っていて、正義感から異議を唱えることは必要だと。社会に怒ることも出来ない現実に憤りを感じていた。
ここで“怒り”と“憎しみ”の分類。
“怒り”と“憎しみ”は対象自体が違う。“アノニム”は“匿名”で、ヘイトスピーチなんて最たるもので、個人ではなく、どこかの国の人に対しての感情。
どうしたら“憎しみ”から脱却できる?
“憎しみ”は反知性的だから、知性的であればいい、具体的に言うと、“個人レベルで相手を認める”ことが出来れば逃れられる。
伊集院さんは、明日にでも戦争が始まろうとしている時代に、人々を冷静にさせるこの本が敵視されるのは理解できますね、工夫して書かないと、と言う。
最後に“偽善”。(個人的に興味あり)
偽善者が意識しているのは、絶えず他人であり、社会だ。社会の評価や社会的な評判だけを意識して、求められた役割だけを果たそうとする。つまり、善・悪の価値基準を他人に預けて自分では判断しない。
これを三木は“精神のオートマティズム”と名付けた。
これが発表されたのは昭和16年8月。数ヶ月後の大戦を前に翼賛体制の重苦しい空気が言論界に垂れこめていた。
偽善者は、往々にして権力に媚びへつらい、時に他人までをも破滅させる。偽善についての言葉は国策に阿る言論人への警鐘だったのかもしれない。
聞きなれない“社会の道徳性”。個人よりも社会が優先されるべきという考え方と倫理が上から押し付けられる時勢を念頭に置いてこの言葉を使っている。そもそも、道徳は個人のモラルによるものだが、押し付けられる時代は非常に危険、そういうことに異を唱えない人たちのことを偽善者と言っている。こんなことが起こっていては社会も組織もダメになると思っていても、異を唱えない人たちが現れてきた時代だった。
今自分が何を言わないといけないか、それが自己保身と真逆の結果をもたらすとしても言わなければという表現者としての責任を決して忘れてはならない。
伊集院さんは、「‘これ大ごとになったら困るから黙ることを責任って思っていたんだ俺’って気づいた。‘言わなかった’ことも責任、チャンスがあったのに。言い返されることに怯えてはいけない、逆に自分の発言には責任も持ちつつ恐れず言う、SNSでの嫉妬や足の引っ張り合いという炎上レベルではなく、建設的な議論になるよう、大切なところでブレーキがかからないように、心に留め置こうと思う」と話す。
三木は思想を理由に殺されたわけだが、思想や信条を理由に殺された人がいるということを私たちは忘れてはいけないし、同じことが繰り返されないよう言うことは言う勇気を持とうと先生は締めくくる。
ところどころ‘?’と思う個所がございましたが、耳に痛い話です。“嫉妬”や“偽善”、“虚栄”は生きている限り、なかなか切り離れてはくれませんね。番組でのそれらと自分のとでは、何か次元の違うもののようで口に出すのもおこがましい気がしますが。けれど、ピンとくることもありました。退職前にいた会社などでも、つまり組織ですね、おかしいなそれ、ホントに社員や会社のため?と思うコトてんこ盛りでしたが、なかなか意見を言う勇気もなく流されるまま。たまに、恐る恐る口に出すと評価や評判に響いたり。また、上に立つ人が代われば“正義”もコロっと変わります。言うべきことを言わなかったのも“責任”って言葉にはグサっときます。突き詰めると、自分にはそこまで信念がなかったんだなと今は思います。
そうそう、“嫉妬”や“虚栄”は自分の生き方が定まったときに、いつの間にか影をひそめてくれてる気がします(現在まだまだですけど)。それと、歳を重ねて人生の残り時間が砂時計の砂がサラサラ落ちるように、少なくなってきますと、もったいなくって、“嫉妬”に割く時間が。いえ、嫉妬心は持ち続けてます、ある程度ないと原動力につながりませんからね。まあ、たまに嫉妬心が充満してきたなと感じましたら、自然の風景や美しいモノに触れるため外に出ますね。今でしたら、小さな新芽なんぞを見つけましたら、気持ちがリフレッシュします。ん?話がソレたな。やっぱり私はのんき者でございます。
日々感謝です。