今日も、生涯の一日なり

自分軸で生きると決め早期退職した50代独女のつぶやき

Eテレ「100分de名著〜中原中也詩集〜「詩人」の誕生〜」第1回を観て。ずっと気になっていた詩人。

こんにちわ、SUMIKICHIです。

“詩”を書ける人、“詩人”に(にも)憧れます。普段の会話ではだいたい文章を口にしていますが、ひとりの時はたまーに、心の中で詩的な(と自分では思う)世界が広がっている気がします。人には決して言えない、言いようのないもの。

詩集を手に取ることはほとんどなく、ないのに憧れます。眺めてみても何のことかさっぱりわかりませんのに。小学生の頃は、授業で詩を簡単に、何のてらいもなく自由に書いた(書かされた?)のに、いつから書けなくなったんでしょうね。大人になるにつれ、自らを不自由にしてきたからなのかなぁ。


中原中也”。20代の頃からうーっすら気になっていましたので、去年の早期退職後、暇にまかせて図書館で関連本を借りてみました。 

sumikichi52.hatenablog.com 

ですが、他にやりたいコト多すぎて入り込むことなくさらーっと流しておりました。そのままになるかと思いきや、なんと今年の1月の著書は“中原中也”だと知り、この機会を逃してはならぬと録画視聴いたしました。私は、ホント古い人間です。後々でも観ることが出来る便利な時代なのにね。

いつものように、番組HPも参照にしつつ備忘録としてざっくり綴っておきましょ。

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ふだん“詩”に接することが少ない私たちでも、ときに“詩のことば”が胸を貫くことがある。では、人はなぜ詩を書くのか?そして、人はどんなときに詩を読みたいと思うのか?中原中也が自らの言葉を見つけ、詩人になっていくまでの人生を見つめていくと、そうした疑問がするするとほどけてくる。 

中原中也
「汚れつちまつた悲しみに…」「サーカス」等の詩で知られ、青春の切なさや人生の哀しみをうたった繊細な詩を350篇以上も紡ぎだし、三十年という短い生涯の中で「山羊の歌」「在りし日の歌」という二冊の詩集を残した。その詩に込められた思いは、今も現代の作家や詩人、アーティストたちを揺り動かし続けている。今年、生誕110年を迎える。

 

第1回のテーマは〜「詩人」の誕生〜。
指南者は太田治子さん。作家・太宰治の娘さんで作家。朗読は、俳優、ダンサーの森山 未來さん、なるほど、イメージに合いますね。

まずは一篇の詩。

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悲しみの根源的なものが伝わってくる。淡々としたリフレインが続くことで、より深い悲しみが、ひたひたと胸の奥に沁みてくる。

中也は、具体的な悲しみを書いていない、だから、誰もが自分の悲しみをこの詩に重ねられる。これが凄さ。例えば、身内の死が悲しいと書かれているとその人の悲しさ、それはご愁傷様なことだ、としかならない。

 

ここで、中也の基本情報。

明治40年      山口誕生
大正12年(16歳) 京都中学校に転校し、詩人を志す
  14年(18歳) 上京
昭和 9年(27歳) 処女詩集「山羊の歌」を刊行
  12年(30歳) 結核性脳膜炎により死亡
  13年      第二詩集「在りし日の歌」が出版される

生前は一冊しか刊行されていない。太田さんは画家・ゴッホの人生と重ね合わせてしまうと言う。生存中は一枚しか絵は売れなかった、生きることが絵を描くことだった(そうだったな、展覧会や演劇を観たとき苦しくなった記憶あり)。中也もそう。

 

では、どのようにして詩人・中也が誕生したのか?

明治40年誕生。中也は、代々続く開業医の跡取りとして期待を一身に受け育てられた。小学校では成績優秀で“神童”と呼ばれたが、8歳のとき、弟が風邪をこじらせ死亡。この死によって文学に目覚めて行った。やがて、短歌の同人誌をつくり、文学に傾倒するようになると成績はみるみる落ちて行く。病院を継がせたい両親と文学の道に進みたいと反発する中也。中学を落第、京都に転校することになる。

ひとりで故郷を旅立った中也。後年、そのときことをこう綴っている。

  『大正12年春、文学に耽りて落第す。
      生まれてはじめて両親を離れ、飛び立つ思ひなり』
                      ―詩的履歴書 より―

 

都会に出た中也は親の重圧から解放され詩人への夢を膨らませていく。その頃、文学の世界には新しい潮流が巻き起こっていた。

 “ダダイズム・・第一次大戦中に生まれた既存の芸術を一切否定する芸術運動

中也は、自らを“ダダイスト中也”と名乗るくらいにすっかり夢中になった。

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新しい表現にふれて、自らを解体しようとする中也、詩人・中原中也の闘いが始まっていた。(芸術家には“解体”が必要なのかな、ピカソキュビズムとかいう手法を使ってたんですよね、あっ、これは、いろんな角度から切り取ったものを合体させるんでしたっけ?ですから、意味合いは違いますね)

伊集院さんは、この詩を読んで、あとあと月の言葉があるので、トタン屋根が丸い月を一部隠してる状態をかじってる風景に見えたといい、

太田さんは、その時雨が降ってトタンを雨粒が叩き、その音がバリバリに聴こえ、とすると、センベイを食べる音を連想したんだな、激しい雨がふったんだなとイメージしたそう。

正解はないのだ。自由なのだ。伊集院さんは、詩って、実は正しい読み方が必ずあって、自分みたいな素人が感じることは間違ってるんじゃないかとビビるんですよねと言う。(その意見賛同いたします!)


「春の日の夕暮」はダダイズムの影響を受けた詩。前後の脈絡を崩壊しようとする意図が感じられる。普通の意味のない言葉の羅列、どんなに気張って意味のない言葉を並べても、中也の詩からは春の日の夕暮れや孤独が感じられる。それは、「ダダイズムの中に、叙情、つまりリリシズム」があるから。やわらかな優しい人だと私は思う、と太田さんは言う。

中也がダダイズムに惹かれたのは?
もともと短歌青年だったが、短歌という定型詩の世界を徹底的に破壊したい、次々と新しい世界に入っていきたい人、スタイルを飛び越えていく人だったのだろう。


中也18歳、東京で詩人として生きて行くことになる。しかし、胸中には常に故郷・山口への想いがあった。複雑なふるさとへの郷愁はそこで過ごしたふるさとへの想いと重なる。

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中也の研究者で詩人の佐々木幹郎さんは、中也にとっていかに少年時代が大切だったかに注目。詩を書く人間にとって、幼年期から少年少女期はとっても大切なもので、幼い頃の体験や記憶が大人になってもずーっと残り続ける人間しか詩人になれないと思っているよう。

“夏のひる過ぎ、たったひとりで野原を駆けて行った、たったひとりの孤独感”ペンが進むにつれ、“希望を噛み潰していた”という独特な個性、中也の詩人としての原型が見える、単に想い出とかではなく、誰にもわかってもらえなくても俺は生きて行く、“呼!私は生きてゐた”、詩人として、人間として全てを諦めても私は生きて行く!という洗礼に近い。

太田さんは、寂しがり屋で、少年時代の寂しさがずっと続いていて、生きてる、生きてるを2回リフレイン、“自分を励まそう”としていた、あの時生きてたじゃないか、そして今の自分も生きて行く、過去を書きながら“今の自分”を書いている、と解説。太宰(父)はいつも死のうとしていた、中也は生きようとしていた、だから中也が好きとも。人それぞれの中也があっていい、のだ。

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ざっくりこんな感じでございました。
中也の解説本では感じ取れなかったモノを人間の生身の声で聴くとなんとなーく入ってまいりました。詩を解説して貰わなければ理解できないなんてお恥ずかしい限りです。

そういえば、今月18日午後10時からBSプレミアムでドラマ「朗読屋」が放送されるようですが、その紹介番組の中で、「サーカス」(後々出てくるのかな)が取り上げられており、その詩に使われている“オノマトペ(擬音語・擬態語など)”というものを知りました。中也の詩は音の魅力もあって、朗読を流しっ放しにするとBGMにもなりそうです。私にはそういう感じ方の方が合ってるのかもしれません。とにもかくにも、とても勉強になりまし、長年の気がかりだった塊がとけていきそう。これこそ、解体?ダダイズム?違うな。

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日々感謝です。