今日も、生涯の一日なり

自分軸で生きると決め早期退職した50代独女のつぶやき

《人生棚卸》会社員時代の迷走①

人生棚卸のお時間です。
自分を縛り続けていた会社員時代の迷走ぶりを勝手に綴っておきましょう。長くなるので4つのパートに分けます。

まずは、会社員時代の迷走①です。

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《入社22歳〜30歳》

大学卒業後、特に何か志があったわけではないが、縁あって地元放送局に入社。当初は、その頃流行っていた小泉今日子の刈上げショートヘアで、頭の先からつま先までブラックの洋服を纏ったりしていた。我が社の上品な社風に合わない新人がいる、何とかしろ、という役員がいた。封建的なんだなぁ、と思った。接すると、真面目(自分で言うか)なので、仲間内ではちょっと変わった個性的な人として受け入れられた(ことにする)。こうして、私の会社員生活はマイナスイメージから始まった。


初めの3年間は、マスコミとは無関係の庶務仕事。経費伝票処理に明け暮れる日々。当時は会計ソフトなるものは無く、手書きで複写式の伝票に領収書や請求書の数字を書き込んでいくのだ。ペンだこが出来た。記者やディレクター達が楽しそうに仕事している中での独りの作業。せめて、部屋を分けて欲しかった。‘今ならまだ別の道を進めるのではないか’と、チラっと退職の文字がよぎり、ある時上司に申告した。一応、引き止めてはくれた。日頃、文句も言わず、コツコツとこなしていた姿を見ていてくれたようだ。別の道といっても、洋裁学校とかどうかな程度で、本気で何かしたい事があったわけではないのでひとまず留まった。

この頃、仕事に燃えることはなかったが、、プライベートでは、給料という今まで手にしたことがない大金で色々楽しんだ。根っからの貧乏性のため海外旅行やブランド品など贅沢な事に手は出せなかった。また、同期の女性に誘われ、舞台演劇に参加し始めた。これが、早期退職への伏線のひとつとなる。

話はもどり、その後部署が統廃合となるため異動となり、報道部と制作部合せて6年間、記者や番組制作ディレクターの仕事をさせて貰った。異動当初、庶務の仕事が嫌で泣いて異動を頼んだらしい、という噂を耳にした。はっ、またか、悪意のある噂。泣くな、愚痴るな、自慢するな、と親に育てられたこの私が泣いて頼むわけがない!と呆れた。

残業と徹夜で死ぬかと思うほど、忙しかった。ニュース番組は毎日放送しなければならないし、制作番組も週一で放送日が決まっている。埋めることに必死だ。制作番組なんて無から何かを生み出さなければならないので、脳が焼けそうだった。向いてない。自分が手掛けた番組やニュースが放送されるのを見る度、何の素養もない自分が作っていていいのか?と自己嫌悪に陥り、全く喜びなんぞ感じなかった。たまに褒めて頂いても素直に受け取れず益々無力感に襲われていった。だから、余計に、会社にも視聴者にも迷惑かけないよう可能な限り誠実に取り組んでいた。NOと言えず何でも引き受けていた。余りの過酷な勤務状況に身体が悲鳴をあげ、丁度タイミングよく持ち番組が放送休止期間に入り気が抜けたのか、1週間ほど寝込んでしまった。勝手に涙が流れるのだ。周りにはただの有休消化だと伝えた。ダウンしたと思われたくなかったのだ。また悪意の噂が流れるだけだと。ただ、このままでは、今で言うところのうつ病になると判断した私は、番組の担当替えを上司に願い出た。少ない人数で作っている深夜のバラエティ番組から大人数が手掛ける朝の情報番組へ。深夜番組を作れるディレクターがまだ育っていないから無理だと却下されたにもかかわらず、私には珍しくゴリ押しで替えてもらった。体調の事は言わず、自分にはセンスが無いので多少技量不足でも若いやる気のあるディレクターの方が番組にとっても良いとかなんとか理由をつけた。後々、酒の席で後輩に「あの時番組が嫌と言って、担当を変えてもらっちゃいましたよねぇ?」と明るく嫌味を言われたが、苦笑しただけで何も言い訳はしなかった。健康上の理由とはいえ、逃げたと言われればそうである。一体、私はここで、この会社で何がしたいの?何が出来るの?わからない。
そんな中、母が他界した。
悪性リンパ腫という血液の癌だ。この時、番組を持っていたので完全看護は出来ず、母には寂しい思いをさせてしまった。親不孝者だ。今でも思いっきり泣き切れていない。つまり、亡くなって30年近く経つのに未だに供養出来ていないということだ。なぜ、休職しなかったのか。そんなに、自分の会社員生活が大切だったのか。これらの状況含めて制作現場での仕事は限界だったのだ。

この6年間は、目の前の仕事をこなすだけで精一杯だったので、おかげで退職・転職のことを考える余裕は無かった。それでも、プライベートは、舞台演劇に誘ってくれた同期の女性ディレクターとカラオケやぶらり二人バーベキューをしてストレス発散したり、時間をやりくりしてたまに舞台に立ったりしていた。


身も心もボロボロにしながら、なぜか耐えていた。いつか認めて貰える。しかし、組織では通用しなかった。私は、自己アピールが下手で常に寡黙だった。いや、自閉症という意味ではない。仲間うちでは、理解してもらえるが、組織では万人に、特に上司に理解して貰えないと努力は報われない。先輩は「彼女はお金目当てで残業してるわけじゃないですよ。」と擁護してくれたが、残業が多く、番組の担当替えを願い出る我儘な社員、上司と距離を置く扱いにくい部下は異動になった。ショックではなかった。予感はあった。そして空虚だった。ただひとつ、送別会で解散後、後輩男子が駆け寄ってきて「一緒に仕事できて楽しかったです!全てが僕のツボでした。有難うございました!」と頭をさげてくれてちょっぴり魂が明るくなった。

②に続く・・・・・・・
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まとまりなく長くなってごめんなさい。

自分の心の整理のために綴ったものなのでさぞかし退屈だったことでしょう。
最後までお読み下さった方、有難うございました。