本日は、挿し木で育てているアイビー&プミラのその後⑥(越冬中)のご報告。
こんにちわ、SUMIKICHIです。
気づいた時に更新しています挿し木成長記録を掲載しときましょ。八ヶ月は過ぎたかと思います。 まだ寒い日が続きますね。今のところ順調のようです。
【アイビー】
昨年6月頭 鉢に植えた頃かな
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7月 約一ヶ月後
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12月頭
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1月10日
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3月6日
3月6日
可愛い芽がゆっくり次々と出てます
【プミラ】
6月頭
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12月頭
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1月10日
↓
3月6日
小さな芽がゆっくり出ています
過去記事を確認しましたら、アイビーもプミラも、挿し木直後から3ヶ月位は成長が遅く、枯れるかなと心配していたが、9月頃からちゃんと根付いたのかぐんぐん育ってきたと記してありました。現在はまだ寒い日が続きますが、ぐんぐんまではいかずとも成長してまして、ちいさな小さな芽も出続けています。多少、葉に茶色いしみが出来てます。
水やりは、記録を見ますと、なんと5日間位あけていて、ひどい時は一週間やってなかったり。日には当てるようにしています。寒くなってからは液肥も栄養剤もあげてません。階段の窓側に置いてあり、常に視界に入るので、元気だと安心ですし、嬉しくなります。今月末以降、またぐんぐん育ってくれることを祈っております。あっ、栄養剤とかもあげないと。
日々感謝です。
本日は、越冬中の危機的観葉植物のご報告。
こんにちわ、SUMIKICHIです。
まだまだ寒い日が続いておりますが、我が家の観葉植物たちの危険な状況を掲載しておきましょ。
【パキラ】
1月10日
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3月6日 全体的にしおれている
【ミルクブッシュ】
友人から頂いた(去年春前?)時は、半分の高さでした。夏の間に倍成長。左は夏前に戸外へ出しました。
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するめのようにシワシワに
【モンステラ】
1月10日
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去年のウンベラータのように壊滅?
【マドカズラ】
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やはり寒さに弱い?
【名前不明】
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【名前不明】
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【オリヅルラン】
友人から頂いたもので、冬場は枯れたようになるけれど、暖かくなると復活して成長早いと聞きましたので安心して放置してますが元気です。
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全体的な管理は、この時期肥料は与えていない、水やりは、5日間隔位、ひどい時は一週間あいてたということも、太陽の日が数時間でもあたる場所に置いている、等でしょうか。暖房もそんなにガンガンに効かせないので寒さに負けているんでしょうね。もう少しで暖かくなります。きっと復活してくれることでしょう。他力本願過ぎる?
日々感謝です。
TV番組「サワコの朝〜ラジオパーソナリティー・坂上みき〜」を観て。ラジオは映像・・。
こんにちわ、SUMIKICHIです。
ごくごくたまに観ている番組「サワコの朝」。先日は、ラジオパーソナリティー・坂上みきさんがゲスト。TVやラジオでよくお聴きしている声でご存知の方も多いと思いますが、お顔を拝見するのは初めてでしたので録画視聴いたしました。印象に残ったところをざっくり備忘録してきましょ。
坂上みきさん。
1959年生まれ、現在58歳。大阪府出身。大学卒業後、新潟の放送局でアナウンサーとして3年間働き、その後大阪に戻り、MBSでニュースキャスターを務める。そして、30歳のときに局を辞め海外に自分探しの旅に出る。丁度ベルリンの壁崩壊の頃で、これはヨーロッパを見ておかなければとバックパッカーで4ヶ月間。この頃聴いていたのは、ザ・ブルーハーツの「TRAIN―TRAIN」。
列車の旅をし、今日どこに行こうか、何を食べるか、どこで寝るか、毎日この3つしか考えるてなかった。すごくシンプルで、自分の未来どうする?なんて全く考えてなくて、でも、ふと、私、これから何をしても生きていけるなと思ったそう。
31歳で東京にへ。何局か試験を受けて、たまたま採用になったのがFM局。ラジオがやりたかったわけではなく、たまたま。いきなり自分の名前の冠がつく番組を担当。
最初の2年間くらいは、放送作家さんの書く台本に忠実に読んでいたが、ふと、そのまま読んでいたのでは自分の個性が出てこないなと気づき、この台詞を自分らしく言うとしたら・・とひとつひとつ練るようにした。
例えば、“梅の蕾がほころび始めました、とてもいい香りがします”と台本に書かれていたら、自分は普段“ほころびました”と美しい言葉を話すイメージがないと思うので、ならば、ちょっと気取って“梅の蕾がほころび始めました、なーんてね”と“なーんてね”を
つけてアレンジしていた。
ひとり語りは難しい。目からウロコのエピソードがある。
ラジオだから、聴衆者に情景を丁寧に伝えなくちゃと思いこんでいた時期があり、あるとき、“ポリンキー”や“モルツ”のCMを作ったCMプランナーの佐藤さんに「テレビとラジオの違いは?」とたずねると・・・。
「わかりました、では坂上さん、今からここにある台本をくしゃくしゃってしますから、こう言って下さい」とある言葉が書かれた紙を見て読んだ。「なにをなさるんですか!?さとうさん!」と言えと。「今、ラジオ聴いてる100人の人が、何をしたんだろう?って思って、みんなが違うことを想像してるでしょ。ラジオは映像ですよ、想像させて、そこに絵を作らせる、それが大事なんです」と佐藤さんは答えた。
「あーっ、そうやって引きつけるのか」と坂上さんは、それ以来いい加減だと言う。センベイがあれば、いきなりマイクの前でバリバリと食べてるらしい。説明しない、あえて言わない。
また、坂上さんがゲスト対談のときに注意していることは、聴衆者に情報を伝えなきゃと矢継ぎ早に質問せず、ゲストの呼吸に合わせたり、口の重い人なら待つようにしているとのこと。
このほか、“ジェットストリーム”の声でお馴染みのラジオパーソナリティーの城達也さんが、ラジオ放送でもスーツを着て、帽子を被り正装され、照明も薄暗くして、あの“ジェットストリーム”を発する・・その姿をみて、お正月には着物を着たりして、なるべく自分もきちっとしているそう。ジャージで“ジェット・・・”と言ってもどこかにほころびが絶対出る、ラジオは、だそうだ。
ところで、一時期話題になったんですかね、53歳で出産され、現在息子さんは4歳。当時、ほとんどの方からは祝福されたけれど、一部ではどうなのかしらと首を傾げられたみたいですね。
結婚したのは、47歳、12歳年下のニュージーランド人。英語教師をしてもらっててそのまま結婚へ。出会ったときから、彼の子どもが欲しいなと思っていたが、10年にわたっての不妊治療でやっと授かった。一部の批判の声に悩んだこともあり、旦那さまに高齢出産の不安を相談すると、「そもそも、12歳年下のニュージーランド人と結婚して、そこでもう普通じゃないんだし、普通じゃないが一個増えたと思えばいいんじゃないの」とその言葉で救われた。
現在わんぱくざかりの息子相手に日々奮闘中。怒って、わめいて、叫んで、そして抱き締めて・・毎日このくり返し。
そんなある日、信号待ちの横断歩道の車の中から道行く会社員たちを眺めていて、ある曲をかけたら、みんながマンハッタンピープルに見えてきた。ここニューヨークですか?ってくらい街の景色が変わった。韓国のジャズユニット・ウィンタープレイの「Quando,Quando,Quando」。
育児中、頭の中がカオスだらけで爆発しそうになる日々が嫌になって、キッチンでジャズを聴こうと、そうするとプロモーションビデオみたいな気分になるらしい。みじん切りしてても、なんか、私っていい女?みたいな。音楽の力は知ってましたけど、単なるBGMとして流して気分いいわねーってだけではなく、ごちゃごちゃ気分を変えてくれた、それからはキッチンでジャズを聴く、と坂上さんはしみじみ語る。
坂上みきさんの語り口は、よくTVのお笑い番組や映画紹介などで耳にしていましたが、アナウンサー出身とは存じ上げませんでした。とても歯切れ良くて個性のある調子だったので。53歳高齢出産というのも初耳。凄い。バイタリティあって自由な、それでいて繊細な部分も垣間見れて久々に素敵なだなと思う先輩女性を拝見いたしました。
ラジオ・・気にはなっているんですよねぇ。現在公民館レベルの演劇活動に参加させて
頂いてるのですが、この歳になると、53歳ですが、しっとりした声で語られる耳から入った情報で、自由に想像する世界に憧れるようになりました。歳は関係ないか。韓国のジャズユニットの音楽にも興味津々でございます。私もキッチンで料理する際、ジャズを聴いてみようかしら、という気になってしまいました。
日々感謝です。
演劇公演本番まで一週間をきりました!が・・・。
こんにちわ、SUMIKICHIです。
私の演劇活動、地味に進んでおりまして、全員なんとか台本を手離して立稽古できるまでになりました。
ここまできたら、雰囲気でも良いのでとにかく芝居を途中で止めないように台詞を出せ、と団長のお達し通り、台本そのままの台詞ではなく、ちょっとアレンジしちゃってる感あり。私、過去、本番でひとつ台詞を飛ばした経験があり、そのトラウマを乗り越えるのに必死。
上手くいかなくていちいちダメだしされる練習の日々。なんで私ばかり?みんなも台詞覚えてないじゃん、私は間違えるけどみんなより覚えてまっせ!来年はもう参加しないぞ!(その方が団長大喜び?あっ、仲が悪いわけではなく、同級生なので言いやすいのかな)とずっとモヤモヤに囚われたりして、この気分をどうやって解消すればいい?逃げ道は?なんてことを考えてましたら、ふと、ん?私は何か勘違いしてやしませんか?演劇活動は自分が楽しいだけの場ではなく、観客のみなさんのためでもあるんだよね、いちいちいわれのないダメだしされて気分が悪いなら、有無を言わせないように完璧なまでの仕上がりにすればいいんじゃござんせんか?ウジウジする間があったら、100万回台本読んで自主練なさいまし、結局自分自身の問題でしょ、ということに今更ながら気づいたのでございます。当たり前のことなのにね。
ちょっと気を持ち直したところで、昨日は本番の会場(公民館の多目的ホール)が使用できるということで第一リハがございました。初めて全員揃いました。凄いでしょ、一週間前なのに。
衣装や小物、照明位置、暗転・BGMのタイミング諸々の確認しつつ、通し練習。私、一発屋気質で繰り返して練習するとだんだん集中力がだだ下がりになるものですから(言い訳)、台詞を作り変えてしまいました。「大船に乗ったつもりで」を「道頓堀に乗った・・」に、直前の台詞にあったものでして・・これだからダメだしされるんですよね、とほほ。自身のダメダメさにうんざりでございましたが、昨日は地元で活躍されてるソプラノ歌手さんの歌声が何回も聴けて良かったです。
本番では、劇中3曲用意されております。無料公演なのに、素敵な歌声が聴けてお客様はラッキーでございます。
舞台って・・一瞬、魔がさす?違うな、現実にもどる?雑念がよぎる?、つまり、集中力が一瞬途切れる時があるんですよね、意図せず、突然に、思わぬところで、それまで出来てたのに。練習が足りてない、役がなじんでない、表層的・・というだけなのでしょうけれど。怖い・・ホントに怖いのです。公民館レベルでこれなのですから、プロの俳優さんたちが舞台に立ってらっしゃる姿を拝見するとそれだけで感服いたします。
基本立ち返って、残り少ない練習時間で出来ることをやりましょ。
日々感謝です。
Eテレ「団塊スタイル〜男の料理ビギナーズ〜」を観て。思わず作ってみた。
こんにちわ、SUMIKICHIです。
たまに観ているEテレ「団塊スタイル」。今回は「調理はやったことがない」「面白さがわからない」といったセカンドライフを迎えた男性に向けて、自分で作って食べることの喜び、楽しさを伝授。レストラン顔負けの料理にチャレンジするシニア男性たちの様子や80歳を超えた男性シニア料理研究家が自慢のレシピの中から、料理ビギナーの男性のためにお手軽な酒の肴のつくり方を紹介していました。
料理嫌いな私は、簡単な料理が紹介されていたら挑戦してみよっかな程度の軽い気持ちで観ましたら、人生勉強にもなりとても興味深かったので気になったパートをざっくり備忘録しときましょ。
番組では、まず、東京都世田谷区の社会福祉協議会がサポートしている“おとこの台所”料理教室の様子を紹介。近所の60〜90代男性が参加。世田谷区内9ヶ所で2002年からスタートし15年目。一回の会費500円。毎月オリジナルレシピ4品を作る。レシピには料理手順だけでなく、食材の栄養価などの豆知識も載せてある。15年間で490品以上を作った。皆さん、御揃いの黄色のエプロンをかけ、頭には黒い帽子をかぶり、とっても楽しそうに作業している。
この日のメニューは、
キャベツの蒸しサラダ
鶏ドラムスチックのオレンジ煮
牡蠣のバルサミコ ソース
松の実ごはん
以上の4品。
長続きの秘訣はこの3つ。
①は、家庭料理は奥様にはかなわないので創作料理を作るということ。
②は、あれやれ、これやれと命令する人がいないことで、皆で工夫できるから。
新人さんは先輩に教わりながら上達する。
③は、そのままの意味。
続いては、男の夢“自分で作った酒の肴で一杯”を実現している男性登場。
シニア料理研究家・小林まさるさん、83歳。70代から本格的に料理を始めた。「料理をやるなんて全然思ってなかった。人間の運なんてほんとわかんないなぁと思う」というまさるさんは、今ではNHK「きょうの料理」など料理番組で講師をするほどの活躍ぶり。
樺太で生まれて、戦中3日間も食べれない日があったというほど苦労し、日本に引き上げてから家族を持ち炭鉱や鉄鋼のエンジニアとして働く。奥さんが病弱なため働きながら子供たちのお弁当や夕食を作った。57歳のとき奥さんが死亡。しばらくして息子夫婦と同居。長男の奥さんが料理研究家で料理本の撮影時はお手伝い。若いスタッフ以上に働く。
料理のアイデアが浮かぶとノートに書き留める。寝ていても思いついたらすぐ書けるようにベッドのそばに置く。16冊になる。書き始めたのは77歳。試作品は最初に家族に食べて貰うが、三分の二は「これ、なんだ?」と言われるらしい。料理を始めてからは毎日20分以上かけて歩いて買い物に行く。往復7000歩、頭にも身体にも良い。
食べ物に苦労したとき「一生の間で、お米のごはんでたくあんを食えるのかなぁなんて考えてましたよ。米の飯なんて夢だった」と話すまさるさん。今、料理はまさるさんの生甲斐。
肝心のまさるさんの料理は、冷蔵庫にあるもの、どこにでも売っている安い食材を使って簡単なに作れる、酒の肴・おつまみが基本。
自慢のレシピから一品紹介。(これなら私も出来るかも、と作ってみました。冷蔵庫にはありませんでしたけど)
では、男性ビギナー向け“小林まさるオススメ酒の肴”3品を紹介。
3品目は、アボカドが食べたかったので自分でも作ってみました。
ちょっと明太子が多過ぎて、アボカドの味が目立たなかったな。簡単なはずのに・・ダメだなぁ。
まさるさんから男性ビギナーの皆さんへアドバイス。
この他、最初から難しいものに手は出さない。例えば、冷蔵庫に納豆があったら、最初はネギを入れてみる、次に大根おろし、キムチ、味噌汁に入れる・・と徐々にレベルアップしていくのが長続きのコツ、とのこと。
スタジオの女性陣は、男性が料理する姿はカッコイイと力強く言ってました。また、過去の経験や学習によって蓄積・形成された“結晶性能力”は、歳を重ねても落ちにくい、まさに料理というのはいろんな経験をされた方が合ってるんじゃないかと話す。酸いも甘いも噛み分けたシニア男性の料理・・。
番組を観まして、2品作って食べてみました。お酒の飲めない私が言うと説得力ございませんが、たしかに酒の肴、でございます。お酒・・飲んでみようかなぁと思ってみたり。アボカドに生姜って、考えたこともございませんでした。必ずレモンをかけないといけないんだ!と思いこんでいましたので。独り身ですので、明太子とオイルサーディンが余り、これをどうしたものかと。普段オイルサーディンなんて買いませんし、これまでの人生で家で使ったのは一度?くらいだったような。自由に創作すればいいんですよねぇ。ネット検索したら、きっと買い足さなくてはならない食材があったりして、非効率的なときもあります。うーん・・そのまま食するか。
そうそう、小林まさるさんを始め皆さん、とっても楽しそうでございました。ここでも70代から新しい道が開けてる姿を拝見し、“日々の生活をいかに生きるか”の大切さを再確認。シニア男性に限らず、私のようなひとり好きのシニア女性も、なんらかのコミュニティに属した方がいいんですよね、笑う、大きな声を出す、そんな当たり前のことが出来るうちは気持ちを外に、外に。まぁ、とりあえず、オイルサーディンをなんとかしましょ。
日々感謝です。
Eテレ「日曜美術館 “暮らし”にかけた情熱 花森安治30年間の表紙画」(再放送)を観て。ほっこりです。
こんにちわ、SUMIKICHIです。
滅多に観ないEテレ「日曜美術館」ですが、気になる方の特集をしていましたので録画視聴いたしました。随分前なんですけどね。放送自体、2016年7月のようです。
戦後、日本人の暮らしを変えたと言われる“国民的”生活雑誌「暮しの手帖」の表紙画を30年間自ら手がけた天才編集長・花森安治。原画に秘めたメッセージとは?
買うことはないのですが、中年以降書店で見かけるたび手に取り癒されております。美魔女的に素敵なモデルさんや女優さんが表紙を飾る女性雑誌が並ぶ中、地についた暮しを提案する表紙画が目に飛び込んでくるんですよね。40代の後輩女子も、初期の頃の雑誌をいつか見たいと言っております。
番組では、花森さんの足跡をたどりながら表紙画の変遷、込められた想いなど紹介。ざっくり備忘録しときましょ。
花森さんの経歴は割愛しますが、1945年終戦、茫然自失で瓦礫が残る街跡を彷徨い・・1948年に暮しの手帖一号を発刊。
終戦から3年、まだ傷跡があちこちに残る時代の中、鍋やフライパンなど鮮やかな色で描かれた表紙だ。そこには、花森さん自身が見た戦後の闇市での光景が投影されている。そこではフライパンが飛ぶように売れる、本当に光り輝いていた、どんなに気持ちが明るくなったか。やはり、暮しというものが一番大事だということを、そして、まずみんなに腹の底までそのことをわかってもらおう、日々の暮し以外に大切なものはない、花森さんが噛みしめた想いが絵には込められていた。
雑誌には、物資のない時代の中、豊かな絵に描かれたような暮しを自分たちで作りあげるアイデアが紹介されている。リンゴ箱を利用して家具を作る方法など、大工仕事に慣れない女性にも作れるよう写真を使って丁寧に作り方を掲載したり、
当時は馴染みの薄かった洋風ソースのレシピを童話の一場面のように紹介したり。
創刊号には、花森さんの掲げたメッセージがある。
戦後は、誰が幸せにしてくれるのか?という不安や批判が政治に向かうが、花森さんは、生活の細かいところから人を幸せにしていこうと考えた。
花森さんの作風は、同じ人間が描いたとは思えないほどバラエティに富んでいて、1950年後半からは写真を使い始めた。果物や野菜が並んだ構図。斬新でいい意味の緊張感を生み出している。撮影方法も並はずれており、リヤカーいっぱいの野菜などを運び込んで、そこから選ぶがのだが、まる一日かかることもある。
この1950年代後半は、日本の高度経済成長の時代到来。大量生産、大量消費、便利な生活を享受する時代。この頃、表紙とともに力を入れた連載企画があった。「ある日本人の暮し」。人生にせまるルポルタージュ。ある企画を担当した編集者の話・・築地で働く魚河岸のせり人の企画で、毎朝3時に出勤するせり人を撮影するよう指示された編集者が、撮ってきた写真を花森さんに見せたところ、大激怒!
相手は同じ庶民で仲間、その人の人生がでないとダメだと。
花森さんの想いは表紙にも通じており、みんなをうならせたい、これが新機軸だといわせたい、という発想はない、そこにあるのは、斬新さ、ハイカラさと、地に足がついた日本人が守るべき暮し両方が凝縮されている。高度成長に流されるのではなく、しっかりした生活の営みというのはこういう(せり人の日々のような)ところにあるんじゃないのかと。
100号発刊後、心筋梗塞で倒れ療養後、復帰してまた描きはじめる。作風は変わり、様々な女性たちの姿、シンプルなカタチと色、その姿は時にのびやかに、時に静かな強さを秘めた存在として描かれている。
1970年、女性の社会進出が進む時代。しかし、取り巻く環境はまだまだ厳しい。その頃、学校を卒業し社会に巣立つ女性に向けて綴った記事がある。
1978年、帰らぬ人となる、66歳。
生前好んだモチーフは“ランプ”。「世を照らす」という意味がある。人々の暮しを照らすともしびでありたいという願いだったのだろう。
タンカーのような大きな船の方向を変えたいとき、使うのは小さなダイヤル。それを回すことで方向を変える。花森さんは小さな日々の断片で同じようなことをやりたかったのだろう、それをやらずして全体が良い方向に行くことはないと。
ざっくり以上のような番組内容でございました。なるほど、そんな想いが込められているから、雑誌から匂い立つものがどこか懐かしくて、大切な感じがして、見つめてしまうんでしょうね。花森さん亡きあともちゃんと引き継がれていく・・素敵ですね。新しいものも取り入れつつ、根っこは腐らせないで。
図書館にも雑誌があり、2・3月号は花森さん特集が掲載されていました。
それで、再放送されたのかな。どうでも良いことなんですが、録画視聴直後、やっぱり丁寧に生活しなきゃと、劇団団長からもらったかぶで超簡単スープを作ったのでございます。
ブログ作成は今になってしまいましたが。あれもしたい、これもしたい、と視聴直後は心はずみますが、実行出来てないコト多し、でございます。
番組スタジオの花が素敵でした
日々感謝です。
Eテレ「100分de名著 ガンディー『獄中からの手紙』」第4回〜よいものはカタツムリのように進む〜を観て。
こんにちわ、SUMIKICHIです。
ガンディー『獄中からの手紙』、第4回(最終回)は、ガンディー思想の根底に流れている宗教観や労働観など奥深い思想を読み解いていくという内容。ではざっくり備忘録。
番組冒頭、糸車をまわして糸を紡いでいるガンディーの写真を出し、なぜこのようなことをしていたのかを説明。ガンディーが機械に支配されている近代文明に疑いを持っていた、手仕事が重要だと考えていたから。背景にあったのは、糸のもとになっている綿花問題。インドでは綿花がたくさんとれるが、イギリスに輸出し、機械を使って大量に布製品を作り、それらがインドに戻って付加価値がついた値段で買う、といった“富の流出”を招いている、だから、自分達で作っていこうと言い始める。
“スワデーシー”、スワ・・自らの、デーシー・・国、大地という概念。日本語では、国産品愛用運動と訳されることがあるが、ガンディーが考えたのは、狭い意味ではなく、大地に重きを置いた。どんな意味だったのか?手紙の中でこう記している。
自分達で糸車をまわし自国品を普及することが今のインドにおいて出来る最も重要な奉仕だという。
しかし、単に外国製品を嫌うということではないとも言っている。
“地産地消”という言葉が日本にもあるが、自分たちの土地で自分たちが作っていくこと、出来るだけ隣人に奉仕しながら相互補完的にやっていくながら、別の世界を作っていかないといけないと考えだのではないかという。
そして、ガンディーは、インドは40度を越えるとても熱い国なので休むことも必要だ、落ち着いていろんなことを考えたり、他の重要な仕事に携わったり、スピードをゆるめることが文明的なものだと考えていたのであろう。
ガンディーは労働に対して、“パンのための労働”という言葉をよく使っている。手紙にもこうある。
私たちの命は、食べることで成り立っている。大地から出来たものを食べている。私たちと大地はつながっている。この関係を取り戻すことが重要、とすると農業重視だと。
近代的な医者については、近代的なものは必要ないのではという。医者が治してくれるからいいやと暴飲暴食してしまうのではないかと。
ガンディーが問題視したのは、便利になるってことは一体何なのか?ということ。便利になることが欲望を後押ししてしまっているのではないかと。
伊集院さんは、「痩せようと思ってジムに行くんですけど、奥さんに車で送ってという。ジムのマシンの上で歩くんですけど、ジムまで歩いて行けって話ですよね」と笑いを誘う。さらに、「大地で出来たおコメを食べてカロリーコントロールすればいいんですけど、世の中おいしいものがたくさんあって、なかなか人間抗えないですよね」という。現代の私たちに出来ることは、手仕事とか奉仕の範囲を、手の届く身近なところから始めることらしい。
ガンディーは現在のグローバル経済の問題点を見越してたかのように、小さな村落社会、顔が直接見えるコミュニティーを非常に重要視していた。
まず身近な人に奉仕せよ。例えば、かつて商店街とかは、単に買物をするんじゃなくて、元気?とか声掛けして自分を確認したり、人とのつながりあいを保つための重要な社交の場だったはず。けれど、大型スーパーだと無言で買ってレジを出て、家に帰って来る。このように効率的なのが果たして幸せになっているのだろうかと問いかけている。ガンディーは、“モノを単に買う”という行為を、単なる消費とは考えていなかった。誰から買うのか、ここの農家の作ったものを私たちが買うことで農家を支えている、逆に、買ってくれる人の健康は農家の人が支えている、この支え合える関係が大切。都市に住んでいる人は、まわりの農村を支えなさいと言っている。
また労働力も、便利という名のもとにどんどん効率化されてきた。例えば、近年では派遣労働問題。あなたじゃなくても替わりはいくらでもいる、代替可能性をつきつけせれる労働形態だ。今、日本で問題なのは“居場所のなさ”。孤独死問題をはじめいろんな問題が社会現象につながっている。ガンディーは、そういう世界の中では人間はなかなか生きられないんじゃないの?と考えた。ガンディーの考え方を表わす言葉がある。
スピードを出すってことは、俺が正しいんだ!この通りやるんだ!という人間の能力に対する思い上がり。ゆっくり進みましょう、“永遠の微調整”とガンディーは考えた。社会を一変するような魔法はない、一歩ずつ進まないと着実な変化は生まれない。若い指導者には遅いように見えただろうが、実はインドへの非常に大きな近道だった。
そして、ガンディーはどのような最後を迎えたのか?
1946年、インド独立が目前に迫ったが、イスラム教徒だけで国を作りたいという人々とみなが一緒に独立すべきという人々がもめていた。
8月、交渉決裂。カルカッタで約4700人の死者が出るほどの激しい抗争勃発。ガンディーはひたすら周辺の村々をまわり、抗争の鎮静に奔走。そして、“あなたたちが闘いをやめるまで断食する、死んでもかまわない”といい、やせ細ってガリガリになっていった。人々は、この姿を見て争うことをやめる。
しかし、1947年、イスラム教徒だけの国を目指した人々はパキスタンとして独立。ガンディーの望んだこととはかけ離れたカタチとなった。
1948年1月30日、ヒンドゥー教原理主義者による暗殺でガンディー死去。ガンディーのイスラム教への態度があまりに寛容であることへの怒りによるものだった。インドのために捧げた78年の生涯だった。
スタジオでは、結果だけ見ると、インドとパキスタンはまだ争っていて、ガンディーの試みが本当に成功したのかといわれると色んな問題があるが、イスラム教徒とヒンドゥー教徒の対立を食い止めたことは事実。政治的に紛争解決の手段はいろいろあるが、ガンディーはそれらを使わなかった。これは、ガンディーのたった一回の軌跡なのか、そうではない気がする、ガンディーを殺したのはもしかしたら自分じゃないのかとそれぞれに内省させるような方法、これが平和につながるんじゃないかと解説。
最後に有名な言葉。
先生は、常にガンディーの人生に自分が照らされていると思う、あそこまでやった人がいる、お前はどうなのか?と、もちろんなにも出来ていないけれど、一歩ずつ、自分を見つめ直しながら社会を見ていきたい、と言う。
伊集院さんは、まずまわりの人にありがとうと言ってみることから始めます、と決意していた。
番組とは全く関係ないのですが、争いをやめるまで断食を続けたというガンディーの姿を想像していましたら、以前NHKで放送していた「千日回峰」中のガリガリに痩せて瞳孔が開きかけた僧が浮かびました。この行は、失敗したら自死するきまりなんですよね。いつかブログに綴りたいと思ってはおります。話がソレました。「死んでもかまわない」って、一体なんなのでしょうね。学生時代に習ったのはガンディーのほんの一部でした、と申しますか、インパクトある都合の良いところだけしか記憶してませんでした。たった100分で理解いたしました!というのはおこがましいのですが、多少なりとも学び直せて良かったです。
日々感謝です。